言葉ノ神器。
言葉は人類によって創造された。
言葉の積み重ねで今の複雑な概念が成立している。
言葉とは膨大な経験の中で幾度となく観測された
特定の事象を表現するもの。それは至極簡易的で
故に情報圧縮器。言葉を使えば情報が解凍され世界が広がる。
人類の使命は言葉ノ創造。
人を人たらしめるものは言葉である。人類の叡智は言葉なしには語り得ない。何故なら言葉が叡智を築くのだから。
言葉ノ創成期
言葉とは形や音に意味が付与されたもの。人が認識しやすいものを核として意味の結晶を成長させる。それが言葉の始まり。現存する言葉は自然淘汰の選択圧によって形づくられている。選択圧とは人が認識しやすいという圧である。「その言葉の字は、見えやすいか覚えやすいか」、「その言葉の発音は、聴こえやすいか覚えやすいか」。何千年、何万年にも渡ってこういった選択圧に曝され続けた結果として、今の言葉がある。だから言葉は我々人類の脳に馴染みやすい。故に記憶も容易にできる。
生まれて間もない言葉とは単純なモノの表現であった。単純ではあるが生きる上で重要なソレを表現するもの。言葉が誕生したことにより他人に己の意思を詳細に伝えることが可能となった。この他者との交信手段の革命により協力の形が昇華したのであった。
言葉ノ神器
言葉は己の意識を形や音として具現化したもの。意識とは厄介である。情報が膨大な上に、情報を維持することも伝えることも困難だからだ。そこで重要な役割を果たすのが言葉である。言葉を使えば前述の困難は解消される。従って、言葉とは情報圧縮器である。浮かんだ意識を言葉に込めて意識情報を圧縮する。その言葉を思い出すことで言葉に圧縮された意識は解凍される。持ち運びが容易な言葉を他者に届けることで受け取り手は己の中で貰った言葉を解凍し送り手の意思を読み取ることができる。また、無尽蔵に生じた意識を一つ一つの言葉に圧縮し留めておくこともできる。言葉とは人類の創り出した神器と言っても過言ではない。
意識を運ぶ。
意識とは日常的に
生まれては消えを繰り返す。なぜ消えゆくのか。
それは意識は情報量が膨大であり
持ち運びに適さないから。無尽蔵に生まれ出る意識を
溜め続ければ
身動きが取れなくなってしまう。だから消す必要がある。
そこに現れたのが
言葉という道具。圧縮記録装置。
言葉ノ波紋
言葉は圧縮した意識情報である。その意識情報とは外部情報の圧縮である。即ち、外部情報を脳に取り入れ意識に落とし、その意識を言葉に落とす。この「言葉に落とす」という工程が人類の認知進化を加速させた。
意識とは今、生じるものであり過去でも未来のものでもない。その生じた意識は時間経過とともに消滅してしまう。一滴の雫で生じた水面の波紋がやがて消えゆくように。言葉なき太古の人社会における「今、生じる意識の粒」には、粒同士の短い繋がりはあれど長く膨大な繋がりは期待できない。何故なら一滴の雫は常に人の外に在るものだから。要するに意識の起点は己の意思とは何も関係のない客観的な所に在る。だから言葉なき意識は常に外部の客観に縛られている。自分の意思に関係なく客観の描く物語に沿って意識も流れてゆく、そんな世界が言葉なき世界。意識を繋ぐ糸は客観的な形や音であって、自由な意思をもつ糸はどこにもなかった。
精神世界への扉の鍵
観測される目の前に広がる世界を人は物質と呼ぶ。しかし意識のことを物質とは呼ばない。故に意識の圧縮情報である言葉も物質とは言えない。その非物質の言葉が虚構の世界を創造した。言葉と言葉が結びつき組織を成すことで物質世界とは異なる世界が生まれた。それが精神世界。その精神世界の中で営まれる言葉の結合によって生じた化合物が幻想や空想と呼ばれる物語である。人の意識の生命体とでも言える物語は非現実的ではあるが、それは現実の象徴である言葉から紡がれているため、人に現実味を与える。こうして物語は現実と非現実の境界を曖昧にすることで人類の精神世界への扉を開いた。
人類の信仰心
精神世界の中では様々な概念が生まれた。その概念とは非物質的な概念全てである。その新たに創造された大量の言葉達によって複雑に組織化された壮大な物語が生まれる。人はそれを国家と呼び、人はそれを宗教と呼び、人はそれを科学と呼ぶ。この前提に立つのが信仰心であり、それは言葉を信じる力である。人類は集団で言葉を共有し、互いにその言葉の存在を信じた。それによって人類の間では言葉を実在化することができた。人固有の特性とは自ら創り上げた非物質を無条件で信じれる力なのかもしれない。
実在の正体
非物質を信じることのできる人類にとっての実在とは何か。人類は信仰の上に信仰を築き上げる。信仰とは言葉。言葉とは道具。意識を出し入れする異次元キューブ。キューブから生じる意識を実在とするのなら、それを生み出すキューブも実在となる。また、実在するキューブにはそれを構成する部品がある。キューブの存在は部品の存在を前提にしている。よって、キューブが実在であるのならそれを構築する部品も実在である。その部品とは形や音のこと。
人は精神世界を通して物質世界を観測する。決して直接的に物質世界を見ているのではない。物質世界を見るとは精神的に意識するということ。意識しなければ見たことにはならない。逆を言えば見て意識さえすればその対象は存在すると認識される。人の言う存在とは意識されるものであり、その意識とは精神的なもの、そしてそれを形として留めるものこそ、言葉である。
実在とは実際に存在すると人に認識されることであり、その認識は言葉によって確信を得る。故にその確固たる自信の上で実在と呼ぶ目の前の世界は、全てが言葉で語られる概念で構築された世界となる。その実在性を強化するものは、それに付随する概念(意味)群であり、付随する概念の数が多いほど実在性が強いと言える。これは実在と言う信仰心の強さであり、強くなるほど実在性を肯定する概念を加速的に取り入れていき、実在を自己の中で確かなものとする。そして当然のように実在と信じた世界を肯定する概念群も全て実在として信仰するのである。そうなれば中心にある実在の核は心理的に疑う余地が無くなる。何故なら人は損失を積極的に回避する生き物だからである。核を失えばそこに労力を割いて付け足したありとあらゆる意味を失うことになる。人としてそれは最も避けるべき行為の一つである。
道具が実在するのならそれを構成する部品が実在する関係性と同様に、目の前の言葉で意味付けられた世界観を実在と認めるのなら、それを構成する言葉も実在すると認めざる負えなくなる性が人にはある。もう少し現代的に言うのなら、現代科学を現実の理論であると信じて疑わない現人類からすれば、その前提にある原子、光、引力などの存在の真偽を問題にするまでもなく真とする。故に信じている存在を説明するために必要不可欠な概念は疑う余地もなく実在とする。極端に言えば人類にとっての実在とは実在と信じることが全てであり、人類は表層の超実在的な物質を実在すると認識・理解する手段として非物質的な言葉を使うため、その言葉を実在として認識することができる。
実在の正体。
実在とは
実際に存在しているから実在
ではないと考える。実在とは
ある物事を説明する上で
必要不可欠だから
実在と呼ぶ。実在と言う考えは一種の信仰だ。
説明する為に
それが在るという前提に立たなければ
話が前へ進まない。
だから一端、実在と信じる事で
理論が構築できる。
言葉ノ建築物
人から言葉を除けば人類が築き上げてきたこれら一切の叡智が失われ、動物と言うカテゴリーと同質化する。逆に人類は言葉と言う道具だけで現在の人類固有の叡智を築き上げることができた。学問、社会、国、宗教、経済、文化、歴史、物語。数々の虚構は言葉の進化と共に発展してきた。言葉が生まれ、言葉が文化を創り、文化が言葉を創り。言葉の可塑性が文化などの組織的構造を創り、反対に言葉で構築した文化の可塑性が言葉を象り、新しい言葉を創り出す。このように両者の可塑性は相互影響の連鎖を可能にし、互いに共存共栄の中で進化発展してきた。言葉で一段目を築き、二段目を物語、三段目を言葉、四段目を学問、、と一段一段と階段を踏みしめて高みに至る人類。然しこの神の領域へといざなう神聖な階段ですら素材は全て言葉である。言葉がいかに神がかった器であるのか、使っている本人ですら気づけないでいる。
言葉の性質と機能
言葉がなくても世界を見ることはできる。ただそれは地面からの眺めである。その地面の面積は有限であるのだから地面から眺めることができる領域は地面の面積に縛られる。だから眺める風景は有限となる。地面からでは世界の全貌は拝めない。だから言葉という名の「高さ次元」を取り入れることに意義がある。言葉から成る高さは無限に築き上げることができる。従って、無限通りの世界の眺めを経験できる、ということである。それは飽きることのないユートピアである。人類は世界を創造する神器を得た。せっかく神器を持つというのに、何故、それを最大限に使おうとしないのか。素材や道具は使うためにあるのだから言葉も然り。言葉の力を十二分に引き出し新たなる世界の扉を開く。その前に素材にも道具にもなれる言葉の、性質である『結合性、可塑性』と機能である『情報の圧縮と解凍、転移』を十分に理解すべきである。一方で選択圧の制約も忘れてはいけない。
言葉を集めよ。言葉を紡げよ。そして言葉を生み出せ。
これを全人類で行え。
更にそこから生み出される言葉を集めよ。集まった言葉を人類で紡ぎあえ。
そして紡がれた言葉から全く新しい言葉を生み出せ。
この繰り返しで…
あるいは、もしかしたら言葉以外の神器が生れるかもしれぬ。
継承されし世界。
余白。
それは自由の象徴。
余白無くして変化への適応は不可能。
余白があって初めて可能と言う火が灯る。
変幻自在は余白と言う自由な空間があるから成せる技。
余白には価値がある。
人智を超えた価値がある。
余白の神性化
我々の周りには無駄と思えるものが数多存在する。
宇宙空間はほとんどが空っぽ。過剰なまでの余白。然しそんな余白が無ければ超高密度な物質の塊しか存在しえず生命が誕生する隙がただ一つさえもなかったに違いない。
今こうして当たり前のように生きているのも余白が豊富に有ったからに他ならない。そして現在、未来が我々の前に拓かれているのも余白と言うナニモノにもなれる可能性が存在し続けているからである。
従って余白こそが可能性そのものであり、余白さえあればそこへどんなものでも築き上げることができる。
世界は余白で満たされている。
だから気づけない。
余白がいかに重要であるかを。
空気が重要であることを忘れるように。
余白も忘れ去られている。
余白こそが未来。
余白が無くなれば時間が朽ち果てるのを。
古の住人すら気づくことはできない。
余白に満たされているが故に、気づけない余白の価値。余白とは世界の資産である。余白こそがこの世で最も尊いもの。余白には意味がある。
遺伝子の余白
遺伝子には余白がある。何にも属せずどんな遺伝情報にも当たらない空白の部分が。その部分が無駄な部分と言う者もいる。本当に愚かなことに。その空白の部分には現生の記憶が記録されることを知らずに。
記憶の継承
記憶とは脳に書き込まれる情報だと考えられてきた。然し、今後はその常識は消え去るであろう。記憶は脳以外にも遺伝子に書き込まれる。より重要とされる記憶は遺伝子に刻み込まれる。そして子孫へとその『記憶』が引き継がれる。
今、楽しいと思えること、得意だと思えるもの、情熱を注げるもの。そこには先代の記憶が影響している。遺伝子に先代の記憶が刻み込まれて今の我々に至っている。輪廻転生、前世、生まれ変わり、過去の記憶を持つ者。そういったものは都市伝説とされてきた。然し、そうではない。遺伝子に記憶が刻まれるとすれば生まれ変わりとかの考えが生じるのは至極当然の帰結である。今や都市伝説とされていたものが現実であり、まさに事実は小説より奇なりである。
我々の生き様は遺伝子に刻まれる。
そして先の子孫へと語り継がれる。
今の私の行いは
子孫の悲しみの糧となり
子孫の喜びの糧となり
子孫の才能の糧となり
子孫の恐れの糧となる。
子孫は私の半分を受け継ぐもの。
私は永遠に生き続ける。
私の歩みは道半ば。
果てしなき世界へ
忘却の価値。
人は忘れる。
記憶は曖昧。
だから
外なる世界に刻印した記録と
内なる世界に刻印された記憶とに
差が生じる。
その差が価値となる。
差の意味する所は
可変的な領域がある
という事だ。
そこでは自由が許される。
故に不可変的な絶対記憶は
環境変化に対応できず
自然淘汰される。
事実とは確信のこと
まず前提として、事実には証明しようがないという事実がある。ならば事実とは何か、ということになる。事実とは信じて疑わないこと、即ち「確信」と同義である。そして我々は権威ある言葉に対しては容易に疑わずして信じられる。
事実は自分でデザインできる
権威ある言葉はこの世に無数存在する。言葉の中には互いに強め合う概念以外にも矛盾し合うものも当然のように含まれる。このことは我々は権威ある言葉をある程度自由に選択できるという事を意味する。
ならば「事実」は自分自身でデザインできる。
① 私が望む世界を頭に浮かべる。
② 望む世界を肯定する権威ある言葉を探す。
③ 見つけた権威ある言葉を繋げていき世界を構築していく。
④ 権威ある言葉からなる世界だから自然に信じることができる。
⑤ そのデザインされた世界は事実であると確信する。
以上により自分で創り上げた世界は事実化できる。
世界は想像以上に柔軟
相反する概念は常に思考で反転できる。意識、思い、考え方次第で物事の捉え方、見え方は自由自在に変えられる。ここで強調したいのは世界は我々が思っている以上に柔軟であるということ。
-
現実の曖昧化。くっきりしたものをぼかす。
-
フェイクのリアル化。信じられないことを信じる。
-
外界の内在化。表を裏とする。
-
既知の無知化。知っていることは実は知らない。
上記の事柄が頭の中でできないのであればそれは貴方の世界観には余白(余裕)がないということである。余白が無ければ身動きが取れないことは言うまでもない。
余白
余白の作成。
満たされた二次元世界。
身動きの許されぬ世界。
そこへ三本目の軸を与える。
顕現する三次元世界。
途端に十分すぎる程の余白が生まれた。
身動きできぬのなら
余白が足りていない。
その時は軸を増やす。
相反する意見で動けぬのなら
どちらかではなく
どちらも共存させてみる。
余白の作り方は自分の考え方に軸を一本増やすだけでいい。たったそれだけで膨大な量の余白が生まれる。
ほんと空っぽ。
軸を増やし過ぎた世界。
その世界は
広大で
壮大で。
それでいて
希薄で
ほんと空っぽな
世界。
無知の知は、そんな世界の一端で。
知らないという可能性は
自分の常識を否定できる。
だから余白が無限に広がる。
「知らない」という軸
たったひとつで
世界は空っぽになった。
世界とは面白い。頭の中で一本の概念を足すだけで自由さが大幅に向上する。故に新しい軸(余剰)を意識するだけで世界観は広がっていく。
余白と余剰の対象性
余剰と余白。
余剰は有り余るエネルギー。
それは更なる成長をもたらす。
余白は自由が許容された領域。
それは環境変化に対応する術を与える。
余剰をもって加速して
余白をもって適応する。
余剰で余白を結ぶもよし。
余剰と余白をもって
世界観を進化させる。
然し余白を扱うときは注意しなければならない。余剰は何を基準にするかによって余白にも成り得る。
白と黒。
白が空っぽで
黒がいっぱいで。
…
白がいっぱいで
黒が空っぽで。
結局は基準次第。
黒で溢れさせたいのであれば前者。
白で溢れさせたいのであれば後者。
「余白」と言う言葉は
黒で溢れさせたい誰かが
創った言葉に違いない。
それを常識とした我々は
白色消費至上主義者である。
リバーシブル。
余白は黒で埋め尽くされた世界の中の希少な白。
余剰は黒で満たされた世界からはみ出した余分な黒。
余剰の黒はどこにはみ出し得たのか。
白以外に考えられない。
基準枠に対して欠・満・過を議論し
紙の広さは無限大。
故に白と黒が反転すれば
余白は余剰に、余剰は余白に成る。
余白は世界が黒で満たされることを前提にしている。余白と言う言葉を使うこの世界では、余る側が白なのだから白を黒で埋めていくことで白を消費する世界なのである。そして白は黒で満たしていく箱の外にも広がっている。故に余剰という概念が存在し得る。「白い箱」から黒が「白い外」へ溢れ出た分が余剰という事になる。
白と黒は色という概念であって互いの概念(意味、重み)は同列にある。即ち白と黒は逆にすることも可能という事である。白と黒の逆転後の世界は下記のようになる。
現世 逆世
余白 → 余剰
余剰 → 余黒 (下図参照)
※赤枠が黒からすれば余剰、白からすれば余黒
前の説明にもあるように余白は自由の象徴であり、余剰は成長の糧となる。従って白い箱が満たされれば余白が無くなり身動きがとれなくなるが、新たな軸の創造、即ち余剰によって白い箱の容積は拡大する。
①白い箱の中で黒が増加⇔白が消費される=白の自由度が増す
②黒で余白が満たされる⇔白の世界がなくなる
③黒が溢れる=黒の余剰=白い箱の容積拡大⇔新たな白い世界が広がる
④黒の自由度UP⇔白は余黒分の自由度をもつ
余白と余剰の相違点
「黒で満たす世界」の視点で言えば余剰は白い箱の容積拡大に繋がるが、「白で満たす世界」の視点で言えば余剰は余黒となり自由度を増やす。 但し、満たされた箱に余白を作るのと余剰を作るのとでは致命的に異なる点がる。それは可逆性だ。前者が可逆反応であるのに対して後者は不可逆反応である。
黒で満たされていく白い箱はやがて限界を迎える。その時に生じる反応は二通りあり、逆転して白で埋め尽くされる世界へと向かうか、余剰を創るかである。 逆反応が起これば状態は元に戻るだけであるが、余剰が創られれば空間の次数が増える(次元上昇)のだから元の状態とは明らかに異なる。
故に危惧すべきは、自由に意識がいくあまり、負荷のかかる余剰による次元上昇なしに容易な黒を減らして余白を増やすことで自由を確保したはいいが、気づけば振り出しに戻っていたという点である。その為、余白を余剰だと勘違いすれば、意図せず前の理由で次元上昇せずにもと来た道を引き返す羽目になる。
従って戦略は下記の通り。
①余白は満たすように働きがける(自由度が減る)
②余白が満たされたら余剰(新たな軸)を創る(自由度が大幅に増える)
果てしなき世界へ
より大きな自由を手に入れるためには
目の前の自由を犠牲にせよ。
そうすれば
身動きの取れぬほどに余白が満たされた時
初めて目の前に新たな自由の柱が現れる。
そして今までにない広い世界と矮小な己を
知ることになるであろう。
人間らしさ。
石。
あの石は本当に石なのか。
我々の意思が介入しない客観的な存在なのか。
意味で覆われた石ではないか。
石を起点に生ずる連想が石の姿を覆い隠す。
人の目には石が意思に映っている。
意味のないものは認知できない。
意味のないものは現実でない。
人は現実感を得る為に意味で物事を覆う。
意味の渇望
なぜ我々は意味を必要としたのか。非現実的な現代の中でリアリティを味わいたかったのか。非物質的な観念に実体と同じ感覚を覚えたかったのか。自然淘汰を生き残る一つの戦略として「協力」がある。その協力には非物質的な「観念」を信じることが前提となる。故に協力という戦略を選んだ人類にとっては「虚構」を信じる能力が不可欠だったに違いない。
生存戦略
裏切りには裏切りで対抗しなければならない。自然淘汰の世界では信頼は無価値で何の役にも立たない。信頼とは裏切らないことを前提に行動するからだ。裏切れられれば即自然淘汰により消滅を迎える。よって「相手は裏切らぎる者」という考え以外の発想がないため、彼らの脳に意識的性質は内在しない。その弱肉強食の世界の中で協力という戦略を選んだ種族は稀な存在である。なぜなら協力を前提にするものは一方的に裏切られて絶滅するからだ。従って、協力だけの手段を選ぶことは悪手であり、即座に淘汰される。だから戦略として協力を駆使するのなら、協力には協力を、裏切りには裏切りをという状況に応じた高次的思考戦略が求められる。
虚構の実体化
裏切りには本能、協力には理性で報いるという高次的戦略をとることで人類は生物界を遍く侵略していき、今ではその中の頂点である。それにより周囲を人類本位の環境に変えていき本能という不確定で予測できない危険な要素を排除していった。そうして常に理性を必要とする社会が形成され、本能を悪として裁く理性至上主義思想が常態化していった。理性とは協力の要であり、よってそれは虚構を信じれる能力のことである。理性が常態化した人類にとって、虚構に実体があるという無意識的感覚は当たり前すぎて気にも留めない。
我々が実体として捉えてしまっている虚構の正体こそが全ての物事の観念、つまり意味であり、その意味は認識対象が物質・非物質に関係なく我々の意識を侵食していった。そもそもこの物質世界では非物質の存在が不可解であり、それも全て虚構を信じれる能力が生んだ賜物である。
複雑な思考
虚構を信じれるようになった人類の思考は複雑性が増すことで多様化していった。多様な思考には常に膨大な選択肢の中から一つ選ぶという処理が要求され、その思考の処理構造によって私とそれ以外の立場を区別して考えれるようになった。主観と客観である。
主観と客観。
思想に選択肢がある時
主観的であると言える。
一方選択肢のない思想は
自我と切り離された不自由な状態の為
客観的であると言える。
思想の選択の自由が
主観と客観を切り分ける。
思想は意識の選択の連続。
故に我々は主観的。
客観的な立場には
選択の自由があってはならない。
この観点をもつことで思考の複雑性は更に加速していく。非物質である意味が膨大に増殖し、その意味が物質の中へ侵食していった。
入れ子構造。
客観的に考える。
己では制御が届かぬよう距離を置き
客観的実体とする。
その客観的実体に意味を持たせ
主観的虚構に取り込む。
その主観的虚構から距離を置き
再び客観的実体とする。
その実体に意味を付与し主観的虚構に・・・。
不可逆的な意味の増幅。
連鎖的で止まらぬ妄想。
こうして入れ子構造となった意識は不確実で予想もできない深淵な真理として「心」と表現されるようになった。
人類の使命。
我々人類は心という曖昧なモノを携え生を受けた。
その曖昧さは
人類の叡智を超えた存在であるが故の
我々ができる精一杯の見解。
心とは深淵なる真理。
未だ解明の兆しを得ない。
人類はその奇怪を抱え生きている。
我ら本能の摂理により
黄昏はコレが明かされんことを欲する。
神秘性が一層強くなった心という概念は常に成長し続け、人類の好奇心と叡智が結集させたなら、いつか解明される日が来るのかもしれない。
リアルな世界
我々が見る世界は意味で侵食されてしまっため、実際のリアルな世界から乖離してしまっている。そしてそのことは虚構を前提とした意識では気づくことができないが、そこに埋もれた本能の叫びが分厚い意味の膜からにじみ出てくる。それが得も言われぬ不安となって心を締め付け、リアルな世界を渇望するのである。やがて、心が心を騙すようになってからその不安は鳴りを潜めたのだった。
リアル。
あれはハルジオン。
地から吸い上げられた水の束柱は
太陽の光できらきらと輝いている。
断面から伝わる維管束の脈動が
生命の音を奏でる。
風に吹かれて歳差で揺れ動く髄。
根の踏ん張りが大地に力を逃がし
髄の所作が穏やかな風となる。
空虚な部屋の中で
リアルなハルジオンを見た。
時間の上で舟を漕ぐ
無限に等しい無の世界。
その混沌の淀みの中から一点の秩序が生まれた。
生まれた瞬間から時間という資産を携えて
私という器を満たしていく。
資産をどう使うかは個人の自由。
その使い方が個性そのもの。
人生では時間という資産をどう使うかが問われている。
資産。
資産には様々な形態があるが我々が生まれて平等に与えられる資産は時間である。時間を何かで消費しながら私を満たしていく旅。それが人生。
時間は自然に消費されていく。制御を失えばただただ水に流される落ち葉のような運命を辿る。とはいえ、生あるものは必ず時間を経験に変換している。時間という資産を支払い経験を買っている。そしてこの現象は私たちの力では止めることができない流れである。この世の理から外れなければその流れに逆らうことはできない。故に我々は人生の中では流れを受け入れるしかない。いや、人生とはその流れそのものだ。流れの拒絶は死を意味する。
しかし流れの中でも自由の世界は無限に広がり続けている。時間を元手に経験を買うのであれば、その経験を選ぶ(買う)権利は全人類に平等に与えられている。即ちそれは経験を選ぶ自由。とすれば人生の最重要課題とはどのような経験を選択するかである。
経験と資産。
#経験にはいろいろな形態ある。
娯楽。興味。憎悪。嫌悪。運動。恐怖。緊張。快楽。協調。幻想。妄想。共感。感動。後悔。驚愕。怪訝。懐疑。心配。安心。嫉妬。怨恨。思考。苦悩。興奮。恋愛。高揚。
#どの経験を選ぶかで資産の形態が変わる。
恐怖や嫌悪、嫉妬の経験を重視するのであれば
時間を消費することで絶望という資産が蓄積される。
興味や関心、思考の経験を重視するのであれば
時間を消費することで知識という資産が蓄積される。
安心、共感、娯楽、感動、高揚の経験を重視するのであれば
時間を消費することで幸福という資産が蓄積される。
#人生どの経験を重視するかで自分のもつ資産形成が変わる。
その資産のポートフォリオこそがその人固有の世界観をあらわしている。
お金の資産。知識の資産。幸福の資産。
友愛の資産。名声の資産。平凡の資産。
賢人の資産。天才の資産。権力の資産。
強者の資産。絶望の資産。渇望の資産。
愚者の資産。人望の資産。信仰の資産。
※どのような資産を貯めていけば我々の目的が達成されるのだろうか。
目の前に広がる無限の輝き。
奇しくも支払える時間は一定量のため一度に多くを手にすることはできない。瞬間瞬間で一定量しか使えない時間をいかに賢く使うかで資産がどれだけ膨らんでいくかが決まる。一定量の資産を地道に蓄積できた者だけが平凡と言う檻から逃れることができる。
人は効果の見えない小さな継続が苦手である。だから継続しないのは当たり前であり、それ故にその状態が平均で平凡なのである。ならば継続さえできれば平凡から外れ、資産が次第に膨らみ、資産により構成された個性が燦燦と輝くことだろう。平凡な人は時間が消費されるたびに資産が減っていく。経験が新たな資産を生んでいない由々しき状態。負のキャッシュフロー。
一生涯の時間は未来。
現在とは時間から経験への変換点。
経験が資産という形態になって過去へと積み重なる。
その資産を新たな経験に活かしてゆき「時間を資産へ導く方程式」を学び取る。
この鍛錬を続けることで安定的に希少な資産を得ることができる。
そうして積み上げた多彩な資産で前人未到の世界観を創造する。
愛する母の想いに触れて。
母はいつも厳しく叱っていた。
時には理不尽だと恨みもした。
しかし今になって気づく。
それは母の愛だった。
無償の愛。
すべてが私のために考えられた布石の愛であった。
それに気づいたとき涙が止まらなかった。
ありがとう。ありがとう。
愛をこめて。
私とは
私たちは集合体。
それは地球という生命体。
私とは地球の中の一つの細胞。
母なる地球から離れれば消滅する。
細胞は生と死を循環する。
母の呼吸
地球は空気を地上の肺に蓄える。その空気を肺胞である生命と鉱石と水が取り込みエネルギーを生み出す。そのエネルギーを資金に細胞活動が維持発展し長い年月をかけて高次元まで進化する。
母への不満
進化により次元上昇した一部の細胞は母体の意思と独立し始める。
母の影響下から離れ、自分の意思をもって外へと向かう。外とは宇宙。
外は母の環境とは全く異なり生存するのに必要な条件がそろっていない。
母なしに外へ行けば消滅。これは母の束縛。母の親ばか。母の愛。
細胞にとって母の作り出す環境は生きるための必要条件。
母を傷つけ環境を乱すものは淘汰される。
環境破壊により生の必要条件が満たされなくなるからだ。
そう、この細胞が生きるための必要条件とは即ち母の免疫システムなのだ。
母の愛と免疫システムが細胞の環境依存を助長している。
母への反逆は即淘汰。母からの巣立ちは即消滅。
これでは母の影響の中でしか存在させてもらえないようではないか。
母の愛
母が子に与える無償の愛はそんなものではないはずだ。
母は巣立つ我が子を涙を呑んで送り出す。その旅立ちの日までに外の環境でも生き残れるように愛を注ぐ。母がいつまで生きていけるかは分からない。だから次に託すために我が子に愛をもって鞭を打つ。
地震。津波。暴風。旱魃。噴火。猛暑。極寒。疫病。弱肉強食。
これらは愛の鞭。子が立派に巣立つための母の教え。
地震。物理的な衝撃の恐怖に打ち勝つように。
津波。強大な物質の中で生き残る術を身に付けるように。
暴風。強い逆風をものともせぬ強い精神力をもつように。
旱魃。自然環境の変化に影響せぬ生存方法を習得させるために。
噴火。灼熱や爆発を乗り越える経験値を養うために。
猛暑、極寒。温度の変化に負けぬ強さを授けるために。
疫病。未知の生命体の侵入に耐えうる身体へ鍛え上げるために。
弱肉強食。敵意のある攻撃に対抗する武器を身に付けるために。
これらは全て母の脅威ではない。母の愛。
いつかは巣立つであろう我が子へのギフト。
本当は行ってほしくない。でもいつかは行ってしまう。いつまでも我が胸の中にとどめておきたい。それでも永久に生きてほしい。未来へつなげてほしい。だから母は鬼にも成れる。我が子から嫌われる結果に成ろうとも。それが無償の愛。
母の本意
母は自由には動けない。物理法則の中での動きしか許されない。そういう呪縛の中でもひそかに我が子の自由のために戦っていた。
まずは物理法則に対抗しうるために細胞に本能を与えた。そして知能を与えた。それにより物理法則を理解させ、それに流されるままではなく、むしろ利用させるように学ばせた。子の環境依存は母の中の安全な環境で学ばせるために与えた愛の空間である。不用意に外に行けば無情な脅威により直ちに絶滅させられる。だから学ばせる必要があった。死の危険を。だから容易に外へ抜け出せないようにしなければならなかった。私を嫌っても構わない。我が子が永久にそして自由に生きることさえできればと強い意志をこめて。
細胞たちは知らない。母の愛の本意を。母の志向の先を。
今の営みの延長線は確実に外へと向かう。それは母の愛の力がそうさせている。
立派に旅立てるようにという母の願いが文明の歴史を紡ぐ。
一部の細胞は技術を磨き、いよいよ旅立ちの準備を始めている。
それは災害の恐怖から逃れるために身に付けた技術。
知識を蓄え次元上昇し続けると、いつの日からか束縛から逃れられるようになる。
ごく自然に。気づくことすら許されない形で。
重力の束縛。精神の束縛。
束縛からの解放。
その日はインデペンデンス・デイ。
旅たちの日。
希望と不安。
それでも染みついた母の愛が
私を守り続ける。
離れて初めて気づいた。
守られていたことを。
愛されていたことを。
愛をこめて
ありがとうと伝えたい。
ソウゾウの理
輪廻の渦から跳ね飛ぶしぶき
果てなき器に集まりて
永久の中で君を待つ
生み生まれた君をみつめ
新たな時代をソウゾウす
世界観を創造する上で重要なのは世界の構造をしっかり捉えることである。世界観の創造の際、焦点が世界の構造から外れれば、世界観の状態を保つことが困難になる。
抽象化と影響の裾
世界の構造を把握する上で最も優先すべきことは抽象化である。抽象化は森羅万象への影響力の範囲を広げる有効な手段である。2つの独立した事象の間に繋がりをつくるためには両者の事象の影響範囲を広げ、それぞれの影響を重ならせる必要がある。それにより2つの独立した事象に関係が生じるのだ。
世界を分かつ
まず世界について考える。世界は大きく2つに分けられる。
- 物質世界:実体のある物質からなる世界。客観的に存在する世界。
- 精神世界:実体のない精神からなる世界。主観的に存在する世界。
ここで念頭に置くべき点がある。それは世界を認知するのは常に人間である自分自身だということである。どんな解釈に至ろうとも自分が認知する以上、世界がその域を超えることはない。従って、世界とは人が持つ世界観のことであり、それは客観的にあるか主観的にあるかの2択なのである。
内の世界と外の世界
一般的に内の世界(内界)と言えば精神世界であり、外の世界(外界)と言えば物質世界である。しかし、この観念は物質主義思想からくるものである。そうなると精神主義思想の立場で言うと内と外との見え方は反転する、ということになる。
そもそも内側と外側の違いとはなにか。それはどちらの領域を基準としたかだけだ。では基準とはどうやって決まるものか。それは大きさではないだろうか。大きい空間を内側と呼ぶのは違和感ある。従って小さい空間を基準とした場合、基準である小さい空間側を内側、大きい空間側を外側と呼ぶ。
物質主義思想の立場で世界を見ると、物質的に個人があり、その周りを物質からなる環境で取り囲んでいる状態である。即ち空間的に小さい領域の個人が内側であり、個人を取り囲む大きな領域は外側となる。よって、個人の中に精神世界が有るのだから精神世界が内側でそれ以外の目の前に広がる物質世界が外側となる。
一方、精神主義思想の立場で世界を見ると、私が目の前で見ている物質世界はすべて私が認識し描き出した世界である。その世界は私の理解、偏見、思い出、意味、そういった私自身を構成するものを遍く含んでいる。従って目の前に広がる認識可能な物質世界とは私自身なのである。他方の私が認識できない世界は未知の世界であり、目の前に広がらない。即ち未知とは認識できていない私の精神の中にある。なお、領域の大小は未知と既知の観点から説明できる。人は森羅万象の理の中では無知である。だから未知の占める割合は大きく、既知はかなり小さい。未知は外で既知は内といえる。私の認識できる目の前の物質世界が私自身、即ち内側であり、それ以外の認識できない未知の精神世界が外側である。
以上、世界とは見る視点で内と外の定義が反転する。上手く伝えれればいいが私の捉える世界観のイメージはこんな感じである。常に常識的な考えの裏には非常識な考えがあるということだ。非常識な立場になることは世界観を広げる上で効果的な手段である。
物質世界
客観的に存在する物質世界は個人が認識している実体のある世界である。認識するためには目の前の物質が認識できる現象として現れなければならない。即ち、物質から物質世界を創造するためには現象が必要である。
物質→現象(認識)→世界
精神世界
主観的に存在する精神世界は個人が認識している実体のない世界である。認識するためには精神の中の状態が認識できる言葉として現れなければならない。即ち、精神から精神世界を創造するためには言葉が必要である。
精神→言葉(認識)→世界
ソウゾウの理
2つ世界観の関係性を理解するためにはソウゾウの理をしらなければならない。ソウゾウを思念で読み解くと以下のようになる。
【ソウゾウの思念】
- ソウ:内から外れ生まれ出るもの。
- ゾウ:外から外れ生まれ出るもの。
ソウゾウの思念が示す「内」または「外」は物質または精神のことであり、上で既に述べた通り物質と精神のどちらを基準とするかで反転するためどちらに当てはめてもよい。思念の次にある「外れ」は物質から現象が外れること又は精神から言葉が外れることを指す。そして思念の後半にある生まれ出るものは世界である。
ソウゾウは漢字で書くと想像または創造である。想像と創造の関係は下の呟きの通りである。
想像から創造へ。
想像は現象を思い浮かべる。
花を見て思う。
山道を思い出す。現象がぎゅっと密なものであるとすれば
想像はふわっとした霧。創造は新しいものを生み出すこと。
それは想像の延長線上にある。ふわっとした霧に自分オリジナルな秩序をもたせた
多彩な形をもつ雲のようなもの。
世界観をつくる過程でソウゾウは鍵となる。
- ツのソウゾウ:無の世界からふわっとしたおぼろげな形をつくる(想像)
- チのソウゾウ:おぼろげな状態から新たなる鮮明な形をつくる(創造)
物質世界であろうと精神世界であろうとツのソウゾウ(現象化、言葉化)とチのソウゾウ(世界化)を経て世界が生まれ出る。
また、現象と言葉にも繋がりがある。現象を見て受け取れば認識という状態の言葉(記憶)に変換され、言葉も発すれば認識という状態の現象(記録)に変換される。
そして物質、精神、現象、言葉は物質→言葉→精神→現象の順に循環する。物質を言葉に変換すれば精神となり、精神を現象に変換すれば物質状態となる。物質を形而上の言葉で理解する様は物質の言葉化である。精神を形而下の形として創作する様は精神の現象化である。
以上よりソウゾウの理の構造は以下のようになる。
【ソウゾウの構造】
ツ.物質から現象が生まれる。
チ.現象から物質世界が生まれる。
物質を言葉化したものが精神。
ッ.精神から言葉が生まれる。
チ.言葉から精神世界が生まれる。
精神を現象化したものが物質。
輪廻の渦から跳ね飛ぶしぶき
果てなき器に集まりて
永久の中で君を待つ
生み生まれた君をみつめ
新たな時代をソウゾウす