Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

あの雲の名を私はまだ知らない

 

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大空を眺めて

澄んだ空。ああ、なんてきれいな青空なのか。空の青さを引き立たせる、空に浮く白い綿の正体。それは雲。形や色は一度たりとも同じでない。存在するはずなのに掴むことができない。雲とはなんて不思議な存在なのだ。

そもそも雲とは何だろうか。辞書で調べると以下のように記されている。

 

くも【雲】

 空気中の水分が凝結して、微細な水滴や氷晶の群れとなり、空中に浮かんでいるもの。高度や形状によって種類を分ける。→雲級

㋐確かでない形・行動・所在などのたとえ。→雲を掴む
㋑きわめて高い所や遠い場所、また、そうした地位・身分のたとえ。「の上の人」
㋒一面にたなびいたり、広がってかすんだりしているもののたとえ。「花の
㋓すっきりしない気持ち・表情などのたとえ。
「身をさらぬ心の月に―はれていつかまことのかげも見るべき」〈 新後撰・釈教〉
㋔火葬の煙のたとえ。
「あはれ君いかなる野辺の煙にて空しき空の―となりけむ」〈新古今・哀傷〉
 紋所の名。浮雲をかたどったもの。

 

出典 小学館デジタル大辞泉

 そうか、雲とは水蒸気の集まり、つまり意味1のことである。しかし、他にも違った意味で使われている。人は面白いものだ。想像力が豊かな証だ。

 さて、ここで話そうとしている雲は当然、意味1の雲ではない。私の言う雲とは意味2が近そうである。

 

人生の迷いと仏の啓示

そう、人生を生き、何か釈然としないこの気持ち。まさに私は雲をつかむかの如く空に迷い込んでいる。私の場合、「空」は“そら”と呼ぶのではなく“から”と呼んでいる。空虚な気持ちが空を漂う私を限りなく正確に表現している。その空の世界で私は雲を掴もうともがいている。

空は果てしなく広く、そこに漂う雲の数もあまた存在する。それなのに私自身の雲がどこにもない。そう気づいたとき、ふと「知らぬが仏像」が私の頭を過った。

 

知らぬが仏が啓示を与えたのではないかと思う。空を“から”と呼ぶ私の心、その理由がわかった気がした。

 

空(そら)に何もなければ空(から)となる。そこに雲が浮かぶから空は“から”ではなく“そら”となり得るのだと。ということは、私が空を“から”と呼ぶと言うことは私にとってそこに何もないからだ。しかし、見渡す空には確かに雲があまた浮かんでいる。ではなぜ、私は何もないと感じるのだろうか。

 

それはそこにある雲が私のものではないからだ。それは私の創り出した雲ではないからだ。私は空の中にある他人の作った雲を見て空(そら)であると安心しきっていた。いや、そう信仰していた。しかし、知らぬが仏の見えざる手で、その信仰により井の中でめくらになっていた私の思考が突如高見へといざなわれた。

 

空に浮く雲への恐怖心と悟り

空に浮く雲はどうも危険だ。依存性が強い。それがないと生きていけないのだと本能が私に訴えてくる。空(そら)が空(から)になってしまうのではという恐怖からではないか。しかし無意識のバイアスから自分を切り離して客観的にその恐怖を眺めると、意外に冷静になるものだ。

きょう‐ふ【恐怖】

〘名〙 恐れおじること。恐ろしく感じること。また、その感じ

 。

 恐怖とは感じること、つまりは空想。ではその空想とは何を指すのか。それは将来起こりうる未知を指している。即ち、現在の私が創り出した「未来に起こりうる危機をテーマとした物語」を実際に起こる現実のものと信じたせいで生じる精神の乱れが、恐怖の正体であると考えた。そうすると、結局は恐怖は未知に対する反応なのだから抽象的に見れば恐怖は好奇心と同じであることになる。そう悟ったのである。

 

だとすれば、私の信じるこの世界が空(から)であると知った時の恐怖心は好奇心にも変えることもできる。いや、もう既に空(から)の世界が見たくて心がうずうずしていたのだ。

 

空の真実と構造

某仏様の見えざる手の後押しもあり、私は目の前の空の真実と向き合い、正確な姿を顕現させることができた。その姿が空(から)である。他人の世界を生きる自分が真実の世界であり、その世界の名が空(から)である。

空(そら)は空(から)と呼ばれる空間と雲と呼ばれるものが合わさって顕現する。空と雲は互いにやや複雑な相補的な関係にある。

私は空(そら)を生きたいという欲があり、それは皆も同じだ。何もない世界が面白いはずがないのだから。だがしかし、私以外の人は、他人の創り出した雲があるのだから世界は空(そら)として成立していて、それで十分満たされるのではないか、という疑問が沸くに違いない。確かにその通りで私も知らぬが仏の啓示がなければ他人の世界を空(そら)と信じて未だに満ち足りた世界をのうのうと生きていただろう。なぜそんな借り物の世界で満ち足り得るのか。それは今生きる世界を自分が創り出した世界であると微塵の疑いもなく確信していたからだ。しかしこれは的外れな誤謬である。この誤謬が生ずる理由は、私の認識する世界はすべて私の頭で認識して、かつ私の頭の中で描き出されていることより、私の頭に広がるこの世界は全て私の創り出した世界だと信じ得るには十分だからである。

 

しかし、知らぬが仏の啓示によりその前提が覆された。空を探せど探せど何一つ私の創り出した雲がない。そうして私の世界の定義は崩壊した。創り出された世界で生きる私。それを真の世界と呼んでいいものか。呼んでいいはずがない。生かされる人生。そこに何の自由があるというのだ。自由のない世界。縛られた世界。私はそれを世界とは認めない。世界の定義が崩壊したのではなく、自らの意志で崩壊させたのだ。そうすることで他人の世界から解放はされたが、私の世界に内包していた何もかもが無くなった。

 

この状態を何と呼ぶのがよいか。そう、空“から”という表現が最適だろう。私にとって他人の創り出した雲も空間の一部に過ぎない。

 

空に浮く雲とは何か

ようやく冒頭の問いかけについて語ることができる。

それは掴むことができない。それは実体のない虚構。それが雲。空(から)と雲が形成する空(そら)が世界であるのなら雲とはいったい何を意味するのか。

 

そもそも世界とは認識できて初めて顕現する。認識とは脳の意識下の域内にありその領域が世界である。意識が強くはたらけば自身の世界に与える影響もそれだけ強くなるということだ。では、意識とは何なのか。それはこの世の理を人の頭で脳が理解できるよう物語ることである。意識するとは物語るということであり、その物語を我々は世界だと認識している。

 

物語はフィクションであり、この世に実体はない。だが、我々はその物語を強く信じることで、実際にあるかのように感じている。世界の存在が物語であることは簡単に理解できる。国の存在、貨幣の価値の存在、社会の存在、これらはすべて、それらに付与された物語を人々が信じるからこそ存在が成り立つ。我々人類は物語というありもしない空想を信じることで高度な文明まで築き上げ、自然の摂理の影響下から脱し人類の摂理の次元を創り上げ自然淘汰の中の人類の地位を押し上げた。それらはすべて虚構である物語を信じる人類屈指の能力の賜物である。人類にとって物語を信じることは生存する上で掛け替えのないことであり、虚構の物語を信じることができなくなれば自然の摂理の影響下に引き戻される。

 

物語を信じることによって我々人類は数多の個体と結びつくことができる。即ち、物語の信仰によって協力することができるということだ。同じ物語を夢見ているのだと互いが疑いなく信じることができるから協力関係が成り立つ。物語の信仰によって構築された社会を生きる我々は物語を信じることで生かされている。そしてその前提によって物語が現実であると錯覚させ、それが世界となるのだ。物語が世界を形成する。

 

物語が失われた世界はどうなるのか。空(から)となるのである。いくら川があろうが山があろうがそれは空間の一部に過ぎない。このことは空(そら)と相似する。そう、ここまで言えば、雲とは何かという答えは分かったのではないだろうか。

 

雲とは即ち、物語である。

 

雲の正体により導かれた世界観の創造への課題

私はその物語を自分で創ることができていない。これでようやく私の課題が明確になった。私の人生の主題である世界観の創造の課題。

物語は他人が創ったものであれば、結局、その他自然物と同じ空間の一部と定義され世界が空っぽであるという結論が導かれる。

 

他人の世界に生かされる私

他人の物語の中で生きるということは世界の法則を他人の都合の良いように構築されるということだ。一生懸命働いても一向にお金が増えず時間と精神だけが浪費されているということは、他人の創った法則の中で生きているが故に私の浪費で他人の利益が齎されるように世の中ができてあがっているということである。

 

ここでの教訓は自分が満たされる結果が得られていなければ他者の物語の中で生かされているのだと疑わなければならない、ということだ。そして他者の物語の最たる例が“常識”である。そういった物語は作者が望むように改変できる。周囲に常識を植え付け、洗脳して、信徒から税を搾取する。即ち、物語の中においては作者が神となるのだ。

 

私が世界の神となるには

他人の物語に生きていては流されて一生を終える。これからやることは限られる。自分自身で創った物語の世界を生きることである。そのためにもまずは物語を創らなければならない。そう、雲を創るのだ。水滴を一つ一つを紡ぎ、そして雲を成す。水滴はより多く一か所に集め、互いが影響し合えるようにする。それにより、人はそれを雲と信じて周囲に語りだす。こうして私の雲が共通認識され、私の創った空(そら)の下で人々は世界を謳歌する。私の雲が創り出した簡易的な法則が創発を生み、複雑なシステムが形成される。複雑なシステムとは、私の雲が雨を降らせ自然の恵みとなってまた再び雲を形成するという輪廻転生システムのことだ。常に循環するそのシステム下では、環境の変化にあわせて雲は形・姿を柔軟に変え、常に雲は安定している。

そうして、雲の中の私の面影は複雑なシステムによりかき消され、人々は法則が私の意図によるものだというこを知る術を失くし、そういった存在を認めることすらできなくなる。そうすることで人々の行いが常に私の糧として蓄積されるのだ。ただし、独裁体制は常に内部崩壊という歴史を辿っていることを考えると、世界の法則が常に他人の不幸を糧にするものであってはならない。

 

世界の神となるまでのステップを整理したので以下に記す。

  1. 世界を疑い、自分の見る空を何と呼ぶか考える(インフレーション)
  2. 雲を観察し他人のものと区別する(ビックバン)
  3. 物語の素材となる情報を量産する(生命のスープの誕生)
  4. 自分の物語を創り、膨らませる(生産)
  5. 創った物語を他者に共有する(繁殖)
  6. 人々が物語を語り合い、物語が伝染する(複製)
  7. 物語の信仰によって自分の世界システムが高次元になるまで寝かせる(進化)
  8. 物語が現実と区別できなくなる(生存維持)
  9. 自分の物語の中で生き続ける
  10. 自分の物語の中で自由を学ぶ
  11. 何でもやってみて何でもできることを確かめる(シンギュラリティー
  12. 自分の物語の中に生きている確証を得る
  13. 自分の見る空を“そら”と呼ぶ(悟り)
  14. 神となる(状態の昇華)
  15. 創造神として世界を構築し続ける(インフレーション)

 ※物語は生命同様、自然淘汰を生き抜くようにしなければならない

天国とは

自分の創る物語の中で生き抜くことができればどれだけ幸福感を抱けるのだろうか。その世界は他人の世界よりもっと自由でいられる。

 

見上げる空は自由そのものだ。

 

そこに浮く雲が空に奥行きを与える。

そこに浮く雲が空に動きを与える。

そこに浮く雲が空を色彩を鮮やかにする。

そこに浮く雲が雨を降らせ空を忘れさせない。

この空を私は“そら”と呼ぶ。

 

視界から空が外れてハッとした。 

 

そこに浮く雲の名を私はまだ知らない。

 

 

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