Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

不変性と可能性の戦い

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 安らぎを求めて

我々は技術発展に伴い、周囲の環境を変えてきた。自然の摂理に抗うかのように、自らの身を守るため知恵を絞った。不確定性を恐れ定住による農耕と牧畜を好み、それでも逃れれない自然環境の変化に対しては、不変であろうと環境条件を一定にする技術を発展させた。我々は自然淘汰の呪縛から逃れるために、ひたすらに不変を求め続けた。その技術結晶が現在我々のよく知る“人工物”である。

 

人工物とは何か

人工物の境界線について考えると、まあ曖昧なものである。直感でこれは不自然だから人工物だ、程度の条件しかない。ただ、私は人工物とは「固定」の比率が重要な要素であると考える。固定度が高ければ人工物ということだ。このことは考えれば、当たり前のように感じる。我々は混沌を嫌い、血眼になって安定を求めた。自然は人間にとって複雑すぎた。だから、条件を定め出来得る限り物事の簡略化に努めてきた。我々は理解できない混沌に畏怖の念を覚え、理解できる固定された物で身を囲むことで、この恐怖から逃れてきた。この固定された物、即ち人工物は我々の恐怖から身を守る壁なのである。この壁が壊れれば、たちまち混沌の自然に身を投げ出され、想像通り全てを失うことになる。

 

恐怖から逃れる旅の始まり

そういった人工物は一種の宗教物だ。宗教の象徴と言い換えてもよい。一部の思考する人間が解を求めて理論を構築していったが自然に身を置く彼らは、自然の混沌に明瞭な解を得ることができなかった。それは未知であり恐怖である。我々は恐怖に対して二つの回避策をとった。一つ目は全知全能の神と言う名の人工物*1を創り出し、その神が言うことが全ての答えであるとした。二つ目は環境を簡略化し、混沌から逃れるために、建物や空調器などの人工物で身を囲うことだ。

 

神の答えで恐怖を忘れられた

一つ目の回避策では、神に聞けば答えが得られるので、未知に対する恐怖心は次第に忘れ去れていった。ただその安寧も永遠とは続かず科学誕生とともに再びトラウマのごとく恐怖は蘇った。神の教えが全てとするならば、それ以上の未知は無く、求める必要もなかった。しかし、恐怖を忘れた人間の中に神の答えの誤謬に気づき、興味本位で神には頼らない答えを求めていた。そうすると今まで不変で固定化され収束していた答えが、突如再び、霧散し、発散し混沌の道を歩むことになった。

 

学問がトラウマを呼び起こす

そこで、ロジカルに結び付けられた情報が形を成し、理論体系を象った学問と言う名の宗教が生まれた。ここでも、答えは一つしか許されないが、誤謬はなく人間にとっては納得いくものだった。不変で固定化された理論はまさしく恐怖から逃れる術である。だが、それが故に、自然の放つ混沌に対する未知への理解がより一層現実感を助長させ、即ち恐怖は具現化した。この具現化された恐怖から回避する策が、次に述べる二つ目の回避策である。

 

周囲環境を固定化し恐怖を減らす

二つ目の回避策は自然の曖昧さから逃れるために環境を簡略化し建物や空調器などで身の回りを固め、恐怖心を想起するのを抑制した。こうして、いつ来るか分からない豪雨や暴風、猛暑や極寒に対して抱く恐怖心から物理的に逃れることができた。法律や教育制度を作り、不確定な要素を最大限に排除するために社会システムを構築した。平均から外れたものは悪であるという信仰を国民全体に共有させ、その悪を抽出し排除してきた。以上のように、自然と言う混沌で数多ある条件の中で、人工と言う少数の条件を定めることで予測可能なレベルまで環境を低次化し、不安要素がある程度取り除いてきた。その状態が現在である。

 

人工物が不変の象徴

現在を生きる我々はそれを知らない。どのような過程で今が形成したのかを。だから不変が当たり前だという信仰を疑いもなく無意識に信じている。そう信じさせてくれるものは他でもない、我々の身の周りを埋め尽くす人工物であり、人工物の影響を受けた人間たちの共通認識である。人工物が不変の象徴であることは疑いようもない。朝になり目が覚めれば "それ" を見て心のどこかで安心して、夜になり床に就けば "それ" に囲まれ安眠する。毎日、人工物に恐怖を払拭してもらい、日々をごまかし生きている。ただ、我々にはそんな自覚は当然無い。だから、変化しない環境、固定された環境は当たり前であり、過去から未来永劫そうであるべきであり、それ以外考えられなくなっている。それ以外の考えは、自分の守護神である人工物様の否定に他ならないからだ。否定は恐怖や絶望を呼び覚ます。それを否定するのは我が身を蹴落とす悪であり、排除すべき存在であると、心が騒ぐ。

 

人工物を崇める危うさ

 我々の行く未来では、AIの特性上、量子コンピューターの特性上、今以上に混沌であるのは言うまでもない。AIは情報を渇望し、その情報量は混沌であるほど豊富である。人工化の行く先では情報は必ず枯渇する。なぜなら、人工化は混沌とは逆向きの反応であるからだ。また、量子化が進めば状態は一つに定まらなくなる。いや、状態は一つである必要が無くなる。即ち曖昧さの到来だ。AI化は情報を求め、量子化は混沌化を促す。この両者の相乗効果により、加速的に混沌化は進む。我々は今のままでは確実に絶望を経験することになるだろう。

 

人工物の呪縛から解かれなければ

そうならないためにも、我々が今できることは、まずは自らの力で呪縛を解かなければならない。人工物の神は不変を、固定を望む。我々が生まれて社会人になるまでに植え付けられてきた教育が絶対的で間違いないと思わせる。聖書の教えに従い思考が固定化されている。そして、それ以外の教えに対しては不変を望む信仰であるが故、間違いだと一蹴して排他的思考となる。その姿勢が呪縛である。それら "常識" が間違いである可能性を自分の頭で考えることこそ、呪縛を解く術である。

 

呪縛は可能性を排除する

ところで、月や火星に知的生命体がいて、彼らの高度な技術が地球にも昔から存在していたことは知っているだろうか。そしてその高度な技術の結晶が混沌化技術が熟した姿であり、我々が混沌だからと出来得る限り隔離してきた自然であるとしたら、あなたはどう思うだろうか。

 

可能性とは未来であり、未来とは時間であり、時間とは思考であり、思考とは人生だ。常識と言う呪縛は人生を奪う。

*1:物は仏と書く方が意味としては近いが混乱を避けて物とした

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