谷底の馬鹿外界を知らず。されど地の底の味を知る。
谷底の馬鹿外界を知らず。されど地の底の味を知る。
~谷底の馬鹿~
馬鹿とは悪いイメージが強い。当然だろう。馬鹿と言われれば十中八九悪口なのだから。ここで言う馬鹿とは下記のような者を指す。要するに馬鹿は知能レベルが谷底と言うことだ。
[名・形動]《〈梵〉mohaの音写。無知の意。「馬鹿」は当て字》
1 知能が劣り愚かなこと。また、その人や、そのさま。人をののしっていうときにも用いる。あほう。「―なやつ」⇔利口。
2 社会的な常識にひどく欠けていること。また、その人。「役者―」「親―」
~馬鹿は外界を知らず~
当然、馬鹿は知能が低いのであるから、知能の高い利口のように視野を広くすることはできない。谷底の人が、山の向こう側が見れないのと同じだ。馬鹿は利口のように外界を知ることはできない。
~馬鹿は地の底の味を知る~
しかし、山の上の人は世界を広く見渡すことはできるが、地の底の味を知ることはできない。*1 ここで、重要なのは山を登った人間はそれ以降、決して地の底の味を知る術が無くなるということだ。地の底の味を知ることができるのは馬鹿だけの特権である。
馬鹿から利口への不可逆性
~馬鹿から利口は可能~
馬鹿から利口になることは山を登らなければいけないので、相当なエネルギー(努力)が必要となるが、逆に言えば努力さえすれば利口にはなれる。もう少し平たく言えば、馬鹿が利口になることは可能である、ということだ。
~利口から馬鹿は不可能~
だがしかし、利口になった途端、重大な問題が発生する。それは下山して元居た谷底へ戻ることができないのである。馬鹿から利口への反応は不可逆反応なのである。これは、盲点である。努力してやっとの思いで到達した山頂で感動に耽っていたら、実は元居た場所に戻れないと気づいたときの絶望感。馬鹿は努力さえすれば利口にはなれるが、利口は努力しても馬鹿にはなれないのだ。
馬鹿と利口の不可逆性に対する解釈
~馬鹿と利口の不思議な法則~
努力をすれば馬鹿から利口になれる。逆に努力をしても利口から馬鹿にはなれない。何とも不思議な法則だ。山と谷を使ったイメージに照らして考えると摩訶不思議な現象である。山を登るには十分なエネルギーが必要であるが、谷へ降るのはエネルギーが必要なく物理的に容易であるというのは常識的な感覚である。しかし利口から馬鹿への反応の場合は寧ろエントロピー増大の原理*2とかそういう感覚の方が近い。ここで、反応について少し考えてみる。
反応とは何か
この世の自然反応は大きく下記2つの理由で起こっている。一つはボールが谷へ転がり落ちる反応のように、エネルギー的に得をする理由から起こる反応(エネルギー減少の原理)。もう一つはコップの中の水が蒸発したら元のコップに戻らない反応のように、確率的に得をする理由から起こる反応(エントロピー増大の原理)。この両者の反応の兼ね合いで、どのような反応が起こるかが決まる。
~馬鹿利口反応の解釈~
では、上記を踏まえて馬鹿と利口の反応はどのように説明できるのだろうか。
馬鹿から利口への反応
馬鹿から利口への反応は、エネルギー減少の原理による反応である。もし仮にこの反応が自発的反応なのであれば、エントロピー増大の原理による反応が考えらるが、実際、自発的反応ではない。馬鹿は放置しても馬鹿のままであるからだ。自然に馬鹿が利口になったりはしない。馬鹿が利口になるにはエネルギーが必要である。したがって、エネルギー減少の原理の反応である。エネルギーは努力により蓄積され、そのエネルギーを使って山に登り利口の味を知る。
利口から馬鹿への反応
一方で馬鹿から利口への反応は、エントロピー増大の原理による反応の逆反応である。エントロピー増大の原理による反応は不可逆反応である。利口は高エネルギー状態なので馬鹿になるためにはエネルギー的に有利であるが、その反応は不可である。とするとそれ以上の理由としてにエントロピー的な不利の方が大きいことが利口から馬鹿になれない理由であると解る。もうひとつ馬鹿の努力を消滅させる反応があり、この反応はエネルギーコストが非常に大きいため、生きている間は到底起こりえない。
~馬鹿利口反応の新たなイメージ解釈~
以上を踏まえると、谷と山を使った馬鹿と利口のイメージ解釈には無理が生じる。特に山に登って以降は、上手いストーリが作れない。従って、馬鹿と利口の反応を新たなイメージ解釈へと落とし込む。こういう時はたいてい、マクロ的解釈よりもミクロ的解釈の方が上手くいく。脳の中を箱として考え、箱の大きさを世界観の大きさ、箱の中の情報分子は経験量や知識量と相関があり、箱の大きさと情報分子数で知能は決まると仮定してイメージ解釈する。
馬鹿は狭くて小さい1つの箱からなる世界(脳)で生きている。そこから膨大な努力(様々な経験と勉強)により外部に散らばった情報素粒子をかき集め非常に安定な情報分子(経験値や知識)を生成する。努力による情報分子の増加に従い箱内部の圧力が高くなり、小さな箱では収まりきれなくなり、やがて情報分子は壁を壊し外の箱へ飛び出す。この状態が利口である。ここで、小さな箱は大きな箱の中にあり、その大きな箱はさらに大きな箱の中にと、入れ子の箱になっている。なので、外に出た情報分子はまだ一回り大きい箱の中であり、外の大きな箱に飛び出せるか否かはさらなる努力による情報分子の生成量次第である。利口になると箱の体積が大きくなった分、壁を壊す情報圧にするために必要な情報分子数は初めの箱より多くなるため、さらなる努力が必要と言うことになる。外の大きな箱に情報分子が飛び出せば(利口の世界観)、元居た小さな箱(馬鹿の世界観)に戻るのは確率的に困難である。また、生成した情報分子を不安定な素粒子に分解消滅させることは非常にエネルギー的にコストが高いため困難である。この2つの理由より利口から馬鹿からにはなれないと解釈できる。
~まとめ~
努力とは脳内の情報分子を生成すること。情報量の増加はエネルギー増加を意味する。情報分子は努力により情報圧としてエネルギーを蓄え、やがて馬鹿の壁を破り、一回り大きい世界へ解放される。解放された情報分子は互いに相互作用して新たな世界観を構築する。これが利口という状態である。利口は馬鹿に戻ることは不可能である。理由として、一つは散らばった情報が小さな世界に戻るのは確率的に有り得ないから。もう一つは生成した情報分子を素粒子へ分解消滅させるのはエネルギー的にコストが高すぎるから。
総括
要するにここで言いたかったことは、馬鹿は利口になれるが利口は馬鹿にはなれない。なので、物心ついたときから利口だった人間及び、馬鹿だった記憶が無い人間は、馬鹿の視点に二度と立つことができない。だから、馬鹿は馬鹿を知らない利口に対して非常に大きなアドバンテージがある。馬鹿な状態を記憶することは、資産を運用するということであり、記憶は貯金や投資にあたり、このときの馬鹿は元本の一部となる。元本は成長すれば利益が発生するので、あとは馬鹿を記憶し続ければ複利効果により、利益が大きく膨らむ。しかもその馬鹿という商品は利口になれば二度と手に入れることはできない一生ものだ。もちろん馬鹿は他人にも売れない。それは人間として成熟した時に世界観の大きな差として現れる。二度と手に入らぬ世界観を思うと、馬鹿な時代も捨てたものではないと思うし、馬鹿を知らない(忘れた、知らないことを知らない)人間に対しては優越感のようなものも芽生える。馬鹿であることは決して悪いことではない。それを活かすには地の底の味を知り、忘れないことが重要である。
地の底の味を知る世界観
生きるとはエネルギーを減少させ、エントロピーを減少させる反応である。
死ぬとはエントロピーを増大させ、エネルギーを増大させる反応である。
生と死の切り替わりは、いったい何がトリガーとなっているのか不思議である。