Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

一般論は思考の足枷でしかない

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日常

日常的であり、当たり前。

空の色。
花の香り。
鳥の鳴き声。
風の感触。
水の味。

 

日常の影

こんな日常にふと影をみた。それは常識である。この常識はあなたの想像した通り、この社会で一般的な、平均的な、多数的な、所謂、一般常識のことだ。
一般常識は正しい、とうい常識は私の中では既に時代遅れの考え方である。
その時代遅れの中でも「現在より過去は劣っている」という考え方。これは暗黙の常識であり、科学分野であってもこの根拠のない常識を大前提にしたロジックが当たり前に受け入れられている。「現在より過去が劣っている」という思考の選択法はアルゴリズムと言うよりかはヒューリスティックスである。「現在より過去が劣っている」と考える人は、信仰心にも似た心理傾向をもつので、これとは逆の考えに対しては排他的である。

 

現在より過去が劣っている

「現在より過去が劣っている」と主張するあなたは、その解はアルゴリズム的選択によるものだと主張するに決まっているのでアルゴリズム主張派と分類しよう。その逆が、解は直感的選択によるものだと主張するヒューリスティックス主張派である。
アルゴリズム主張派は人間進化論を何の疑いもなく受け入れていることだろう。人間進化論については根拠が乏しく未だ証明されていないが、それでも日本教育界ではこの人間進化論を採用している。なので、我々が何の疑いも抱かないのは当たり前なのである。
また、「現在より過去が劣っている」と強く納得させるそれらしい理由は我々の常識の中にある。それは、人は生まれて以降、日々を成長していくという常識である。これは、一般常識で、当たり前で、確固たる事実である(と思い込んでいる)。この信条が集団の各脳に深く刻まれ、これを無意識下で保守しようと脳が働くためアルゴリズム主張派は多数派となり、「現在より過去が劣っている」という考え方が常識となるのである。

 

ヒューリスティック

ここで、冷静になって考えるべきなのが、分数でいう分母である。誤った思考の選択は常に分数の分母を無視して分子だけで正しいと判断する。即ち、ヒューリスティックスなのである。人の記憶は勝手なもので、印象の強い思い出だけを容易に想起できる性質をもっている。人は容易に想起できた記憶(分子)だけで常識と判断する。
このことを踏まえると、成長し続けているということが事実だと確信を持てるのも、それだけ成長できたことが強く印象に残っていて、その部分だけが過去の記憶として容易に想起できたためである。即ち、この過大評価された人生経験の記憶から、「現在より過去が劣っている」ことが当たり前であると拡大解釈するのである。

 

現在より過去が劣っているとは言い切れない

では「現在より過去が劣っている」ことが間違いだと言えるだけの証拠があるのかということであるが、そんな証拠はない、が結論である。ただ証拠はないが、「現在より過去が劣っている」ことが全てに当てはまるという考え方、即ち分子しか考えないのは間違えであるとは言える。従って、ここでは分母を考えることが最重要である。
ある個人の人生を分母とするのであれば、「現在より過去が劣っている」ことは正しいと言えるかもしれない。だが、分母を個人だけではなく全世界の人の人生とした場合は、不幸な個人(ネガティブな性格)も含まれるので、正しいとも間違っているとも言い難くなる。これが常識の現実である。その中でアルゴリズム主張派は、自分の考えの正当性は半々の確率であるのにも関わらず、寧ろそれを100%正しいとみなしてしまう。だからこそ、アルゴリズム主張派に「現在より過去が劣っている」ことが間違っている可能性もあるのだと下記を見て思い至ってほしい。

 

現在存在する全てが高度な技術の結晶

ここでは、分母を人間の人生単位を引き伸ばして、宇宙誕生から現在までの時間単位で話をするとしよう。
無から有が生まれた。空間の形成。物質の形成。星々の誕生。生物の誕生。人間の誕生。人間社会の発展。そして科学技術の進歩。なんら違和感ない、我々の知るシナリオ。このシナリオを表面的にみれば過去から現在に至るまで成長し続けている、即ち「現在より過去が劣っている」のである。だが、よく考えてほしい。無から有が生まれた事実。そんな有も当初は無機物ばかり。その無機物主体の環境下から生命が生まれた。それが進化して現在の高度なシステムを有した生物が誕生した。いや、何ものかが誕生させた。よくよく考えると、この事実は驚愕である。あなたは何も無い空間から生物を創れるだろうか。 ―いや、条件が厳しすぎたので、時間はいくらでも与えるので手ぶらで1人で月(月に生命は存在しないものとする)に行って人間を創る、はどうだろう。なお、現存する知恵、知識はいくらでも利用可能である。ただし自身の有機物を使ってはいけない。できるだろうか。

まず不可能だと答えよう。
現存の知恵、知識、それらを最大限に駆使したとしても無から人間を創ることは不可能である。葉緑素ミトコンドリアのように気体からエネルギーを生み出す装置を創れないのだから。加えて各機能を備えた臓器の自発形成を可能とするDNAのような記憶指示媒体も、配列は分かってもそのシステムの理解は不十分なので、まだまだ創れないであろう。ただ、ここで注力すべきは、我々の常識からでは不可能に思えるシステムが現時点においては存在しているということだ。生物が誕生した時点でその技術は確立しているといってもよい。生物はいつ誕生したのか。それは今よりずっとずっと昔のことだ。何ものかが誕生させたのだろうか。「何」は不明であるが。それは自然になのか、別の何かによるものなのか。いずれにせよ、何ものかが今よりずっとずーと昔に、現在の不可能を実現させていたという答えには変わりえない。現に今の我々という不可能な存在が実在する事実と我々の知識の限界によって、現在は過去より劣っているということが我々に突きつけられているのだ。

 

自分の当たり前の改変

従って、「現在より過去が劣っている」とは言えない。過去が現在よりも進んでいた可能性は十分に高いのである。
物は劣化する。生物は老いる。自然の摂理は劣化を受け入れている。時間ベクトルがどちらにせよ。これは日常的であり、当たり前。
これが私のヒューリスティックス。

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