Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

非常識から真理を導く脱常識学

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日常的な誤謬

一は全なのか。

「あの人は変態なんだよ、だって皆が言ってたもん」

この類の会話は日常的に繰り広げられる。
当たり前に使われるが故に通常気には留めないが、ふと立ち止まってみると、ある違和感をもつ。
それは、「皆」とはどれだけの人を指すのか、と。

「皆が言ってた」とよく使ってしまうが、皆とは誰かと問われて実際に数えてみると、たった2,3人くらいである。これは面白い。人間のハイスペックな脳でいう統計のサンプル数は、指で数えれる程しかないのだ。脳で無意識に処理されるシステムの埒内で、誤って分子のみで確率的解釈をしている訳だ。脳は基本的に省エネなので負荷がかかるシステムは自然と避けてしまう。ここでいう負荷のかからない領域というのが、すなわち無意識に処理されるシステムの埒内ということだ。人間の本能といっても過言ではないこの習性により、結論を出すには不十分であると考えれば容易にわかることを平然とやってのける。それは統計学に対する知見が有る無しに関わらず、である。偏見がその代表的な例だろう。

吾々人間は一で全てを決めつけてしまう傾向にある。それは言い方を換えれば一が全であることが正しいと無意識に考えてしまう、人間あるあるの誤謬である。

 

常識と統計の不等

統計的に意味のある「皆」とするためには少なくとも1000人の意見を聞く必要があるだろう。

普通の人間なら日常レベルの淀みなく流れる思考の中で、何かしらの見解を出すときにわざわざ1000人の意見をサンプルとすることはない。裏を返せばごく少数の皆の意見から見解をだすのは普通、なのである。どうやら、木を見て森を見ないのは人間の性のようだ。

 

常識の懐疑論

以上を踏まえた上で言うが、一を全とするのは間違っていると迄はないにしても、結果として過ちを生むことは避けられないと断言しよう。従って、偏見を生み本質を見逃してしまう原因がここにある。この過ちを人間の性と言ってしまえばそれで終わりだが、こういう言い訳は他人を許すときに使えばいいのであって、自分には決して使ってはいけない。この理由は言わずもがな、であろう。
一を全とする思考傾向から、極論、吾々の言う「皆」から得られた意見を基に構築された常識は、常識でないとも言える。このように吾々の持つ常識には疑う余地が十分あるのだ。

 

非常識の常識化

さらに思考を進めると、人間の性が一を全と早合点して非常識を形成するのだから、この場合、個々がある特定の一を例外なく全とすると仮定したら、一個の非常識を常識と錯覚した他者が、その不正確な見解を脳が性格として持つ「皆」という触媒によって信じこむ(洗脳される)ことで、非常識が次々と人-人間(=じんかん次元)で連鎖的に感染拡大し、最終的には皆が同じ非常識を抱えているという訳だから、全員が非常識になる。即ち初期状態では個人レベルで非常識だったことが、伝染を経て結果的に世間の常識になることに気づく。この人間的エラーは、もはや自然の摂理の一つなのだろう。

 

常識から解放され、非常識から真理を導く

この自然の摂理を認め、敢てこの一を全とした場合、世の中の常識は今まで常識故に疑いもしてこなかったが、元々は全て非常識であったということになる。常識が正解であるというロジックは明らかに誤謬である。それを知った吾々は当然次の疑問を抱く。

元々の常識、即ち真理とは何であろう、と。

これまでの一は全という極端な話により生じたこの疑問は序論に過ぎない。
この世の中、全とまでは言わないがこの世界には吾々が観測できない真理が非常識の中にいくつも隠れていることは確かであろう。

例えば、古代が現代より劣っているという常識に隠された真理とか。

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