Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

生と死の相対論

f:id:sutekinakaba:20190128233417j:plain

 

 生と死の常識の棄却

生が見え、そして死を感じる。
物質界に生を受けると、死の概念を纏うことになる。
この感覚は正しい。
だが、見かけ上の正解であって、厳密には正しいとは言えない。
生を受けると死の概念を纏うという感覚では、物質界に生を受ける前は生と死は存在しなかったかのような言い草だ。
その感覚は怠惰だ。常識的すぎる。何の思考の努力も見受けられない。
 

 物質界と精界という2つの概念世界

原初では生と死の概念は重なり合い、互いは分離していなかった。
生と死が分離するために必要な前提条件は、世界が二つに分離することである。
分離する二つの世界とは物質界(現世)と霊界(精神界)である。
もともとは物質界と霊界は等価に重なり合い、半物質的または半霊的な世界であった。
ある日、とある創造主が物質という概念があることに気づいた。
それにより、一つであった世界が物質界と霊界に概念的に別れたのだった。
物質界の概念とは固有の形を持つ存在が生存できる世界である。
霊界の概念は非物質的なもの、形而上の存在が生存できる世界である。
二つに分かれた世界は互いに重なり合うことができなくなった一方で強い絆で繋がり合っている。
片方がなくなればもう片方もなくなる相補的な関係である。
物質界で何かしらの事象が生じれば、それに付随して霊界においても神髄は同じだが性質の異なる事象として生じる。
 

生と死の概念の誕生

この上位法則のもとで、物質界の諸法則は霊界の影響のもとで働き、物質を構成した。
これに従えば、生と死の概念も顕在化する。
生は我々物質界の住人が見えるもの。即ち、生は物質界の次元に存在する概念である。
死は我々物質界の住人が感じるもの。即ち、死は霊界の次元に存在する概念である。
異なる次元のものが見えないのは次元の概念からすれば摂理である。
即ち我々は死を感じることしかできないのはこれがその所以である。
視点を変えれば、霊界からは死は見えるものであり、生は感じるものとなる。
従って、見える見えないをその次元での生と死の定義に宛がうならば、物質界で言うところの死は霊界からすれば生に当たり、霊界で言うところの死は物質界では生を意味する。
 

我々は輪廻転生していた

生前は、霊界でいうところの生に当たり、霊界で死を迎えると同時に物質界で生を受けて、やがて死を迎えると同時に霊界で生を受ける。輪廻転生とはこのことである。
世界の構造としては、隣接した物質界と霊界の二つの次元の間を一定の周期で行き来している。
それはあたかも太陽を公転している地球の様である。
地球が自我に当たり、太陽は輪廻転生の法則または物質界と霊界を繋ぐものである。
太陽を原点として物質界と霊界の二つの立体空間が接していて、接面は太陽系を二分するように太陽の中心を通る。そんな感じだ。
地球が物質界と霊界の接面を通るときが即ち、生じる起点と死ぬ起点である。
ただし、物質界と霊界の空間は絶えず形を変え続けている。時にはわずかな揺らぎほどであるが、時には大きく乱れ、両界の接面は太陽を基点として歪む。
霊界(死)が膨らめば物質界(生)は縮み、生の時間が短くなる。
 

生は死の裏、死は生の裏

太陽は物質界と霊界の両方に跨っている。その太陽の影響を地球(自我)が受けている。

自我は太陽と言う名の法則を介して霊界と繋がり合っている。
我々の精神はこの構造により物質体に繋ぎ留められている。
死も同様だ。だから死は感じるものなのだ。
異次元のものは感じ取れるが、見て取れない。
死と生は次元的立場の違いによるものであり、死ねばその概念が反転する。
霊界に入れば生が見えざるものとなり、太陽を介して感じ取ることしかできなくなる。
この世の死と同様に霊界では(物質界で言う)生じることに恐怖し、永遠の死を求めるようになる。
 

欲張れば全てを失う

死に恐怖し、生の快楽を維持しようとする不老不死への羨望は無意味な追求である。
次元が反転するたびに死の概念も反転するため、基本的に吾々の思う「無」と同義の「死」が訪れることはないのである。
死とは反対側の次元の生を感じることなのだから。
生じている間に死を見たいのであれば、求めるべきは生死の二重性であろう。
即ち、原初の物質界と霊界が重なり合った時代に戻ることだ。
しかし、それと同時に生と死の概念は消滅する。それは混沌であり無ともいう。
対極にある二つの概念を同時に手に入れたとき、それは消滅を意味する。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ