Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

精神世界より

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精神世界

導入

精神世界。この世にそんな世界はあるのだろうか。いや、この疑問は愚問だ。我々は頭で考え、想像し、自分だけの世界を頭の中で創り出しているではないか。そうだ、精神世界は確かに吾々の内に有る。だが、現状の学問を思い起こすと、勢力が強いのは数学、化学、物理学など物質世界を記述する学問ばかりだ。精神世界を記述する学問があってもいいではないか。そこで、基礎精神世界の学問創立の足掛かりとして、手始めに精間と神間についての概念を考えてみる。

精神世界を記述する精間と神間

精間と神間とは何か。それは物質世界で言う空間と時間のことだ。物質世界を言語化するためには、空間と時間と言う概念が必要となる。空間は物質の位置を記述する上で必要な概念である。時間は物質世界の状態変化を記述するのに必要な概念である。それでは、それぞれに対応した精間と神間について考えていく。

精間

精間とは我々が外部情報を遮断した場合でも現れるイメージの中における空間的な概念であり、ここではイメージを記述する画材紙の様なものである。ただし、精間にはいろいろな状態が混在可能であり、ある一点に複数の状態が重なることもある。

物質世界では物体と物体の間には、互いに近づくと次第に引力が働き、極度に近づき過ぎると斥力が働く。一方で、精神世界では精体*1の間には引力や斥力もなく、物質世界の物理法則と比べて精神世界を構成している精理法則*2の存在が少ない。故に精神世界は自由度が高いが、それ故混沌としている。

神間

神間とは精神世界の状態変化を記述するために必要な概念である。精神状態も一定ではなく、よどみなく変化している。それは物質世界の言い回しを借りるなら、神間が経過していると言える。精神状態の変化が神間という概念を生み、流れる水の如く絶えず変化を繰り返し、神間が経過してゆくという錯覚を生む。時間であろうが神間であろうが状態が変化しなければ停止し、その不変の状態が永久となれば当然概念は失われる。

 

物質世界と精神世界

精神世界からの示唆

気持ちの移ろいを表現する場合は、精間で状態を記述し、変化は神間で表す。物理は我々とその周りの物質を構築する世界を客観的に表現するのに対して、精理は我々の内を主観的に表現する学問である。外部からの情報は全て物理法則に従い、脳に記録される。その記録された情報は次は精理法則に従い、状態変化を繰り返して思想と言う形で外部に現れる。それを言語学の力で何とか文字化にしたものが本である。結局のところ、この世に存在する人間が作り出した物体は精理法則を経た結果と言える。人工物が自然界で異彩を放つのは、そもそもそれが形成された法則が異なるからだ。確かに、人工物は物理法則の範囲内でしか作ることはできないが、その物質の騎乗や構成している成分は自然的発生では存在しえないものとなっている。自然に構築される物質は基本的にエネルギー安定の法則とエンタルピーの増大法則に従ってランダムに形成されている為、その平均から限りなく離れた状態は確率的に多くは存在しない。一方で精神世界の中ではエネルギー安定の法則とエンタルピーの増大法則は働かないので、それらを無視した物質の作成が容易に可能である。即ち、この物質世界に自然界の平均から外れた物体、即ち人工物が多く存在しえるのは、物理法則以外に、精理法則が大きく寄与したためであることは考えるに難しくない理由である。

 

精神世界と地球

精神世界では人の作り出す全てが精理法則の影響下にある。だから地球はもう既に精神世界の色に多少は染まっていると言ってもよい。まだまだ物質世界の方が色濃く残っているが、いずれは全てが精神世界に染まっている可能性すらある。いや、もしかしたら既にそうなっているかもしれない。また、精理法則の産物が地球に存在する全ての生物や水であるとするならば、地球外にある太陽系惑星が岩やガスの塊で無生物なのは至極自然で物理法則純度100%で形成した物体であることはうなずける。逆に地球が異質であることは言うまでもない。ただ、こうなると我々人類が誕生する以前に、どこのだれの精神世界を経て精理法則の恩恵を授かれたのか、疑問が残る。

物質世界で精神世界寄与できているのは

ただ、宇宙外の神の存在を考えないのであれば、宇宙誕生により物質世界が生まれたのと並行して、精神世界も存在したと考えなければ話が成り立たない。重要なのは2つの世界はパラレルで存在していおり、物理法則の範囲内で精神世界にアクセスできるなんらかの理由がなければならない。それはミクロの法則のマクロ化に違いない。ミクロの法則は量子力学といゆ奇妙な法則により記述されている。それらは精神世界の法則であると考える。物質空間にできるどうしようもなく小さな穴を通り抜け、精神世界の精理法則が物質世界に作用したのかもしれない。それによりミクロの物質は物理法則と精理法則の柱で形成している。マクロになるに従がい、微小な穴から漏れ出ているだけの精理法則の寄与は薄くなる。だがそこへ、生物と言う名のミクロ拡張装置が現れた。それはミクロの法則をマクロに拡張できる優れものである。それによって、物理法則が主として働くこの物質世界において、精神世界の精理法則の影響が色濃く表れるのはミクロ拡張装置と言う名の生物が多く存在する地球である。

*1:物質世界で言うところの物体

*2:物質世界で物理法則にあたる

宇宙が語った情報の終焉

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宇宙内部系多様化の歴史

無限から有限の誕生

我々が存在しているこの宇宙構造はエネルギー形態の一面のにすぎない。外の住人はエネルギーにいくつかの簡易的な物理法則を与え、宇宙を生んだ。最初は個性的な素粒子が数種類生まれる。その素粒子は個性があれど多様性には程遠いものがあった。

 

有限から無限の誕生

人の感覚からすれば限りなく短く、物理的感覚からすれば限りなく長い刹那の時間の中、素粒子は物理的法則の範疇で協調できることを知った。そして原子を生んだ。原子の種類は有限ではあったが素粒子と比べれば多様性の面で魅力的であった。そして何と言っても、原子の誕生で最も画期的なのはその原子は同種異種関係なく結合できることだ。そしてこの宇宙に無限の概念が生まれた。*1

 

宇宙の多様化

宇宙が誕生して138億年間、宇宙が歳を重ねるに従いその組み合わせ数は増大していった。初めは原子の種類を増やした。そこで使用した装置は我々が星と呼ぶものだ。限られた物理法則の中で核融合反応を用いて原子の種類を増やしていった。鉄より重い元素は超新星爆発を利用して生成した。そういった努力の甲斐あって、原子の結合で生まれる単体や化合物により、これまでにはない速度で加速的に多様化が進んだ。

 

宇宙多様化の加速

これまで粒子としての情報形態をとっていたものが、結合と言う新たな情報形態をとることで、一時は停滞していた多様化は再び加速した。これが生命の誕生である。結合と言う情報形態の優れたところは限られた空間の中で数多のパターンを生むことができるということだ。原子種類や数が増えるに従い、結合にも数多のパターンが生まれ、それは驚くほど空間を節約できる。宇宙と言う限られた空間ならではの発明だ。宇宙も系内部で増え続ける多くの情報を保管するために必死に膨張してきたが、結合と言う発明のお陰で膨張の速度を緩めることができた。

 

宇宙情報の保管

宇宙が内包する情報の増大

宇宙内部の多様化は情報の増大と言い換えることもできる。*2宇宙が誕生してから今まで、宇宙内部ではいろいろなパターンが生まれて続けている。そしてそのパターンがまったく同じだったことは一度もない。局所的に観測すれば同じ状態と思えることも、宇宙全体の系で考えれば同じとは言えない。なぜなら宇宙が体積が同じであったことは一度たりともなく、そして宇宙内部の全原子の配置が全く同じになりえないからだ*3。したがって、宇宙内部では時間の経過とともに様々な情報のパターンが生まれており、情報の増大は一向に留まる気配を見せない。宇宙が収縮方向に転移したとしても、結合と言う情報形態をとれる環境がある限りは情報の増大は健在である。

 

膨大な情報の記録

ただ懸念することがある。その日々生まれる情報はどこかで卒なく記録されているのだろうかと。宇宙内部の多様化を記録できるのもやはり多様化された装置であることは異論はないだろう。そして一つ、私はその装置に心当たりがある。それは、脳だ。脳も同様に多様化可能な神経細胞の結合システムを持ち、その神経細胞ネットワークのパターンにより多様化された外部情報を記録できるという訳だ。ただ、宇宙内部で生成される情報を宇宙と比べたら限りなく小さい脳の中に圧縮できるのだろうか。脳の空間も甚だ矮小で限られているのだから、あるところで必ず物理的限界がやってくる。情報が限界まで圧縮され高密度化した脳の神経細胞間の結合は有限の空間を余すことなく使用しているに違いない。そこに無限のパターンは生じ得るのだろうか。

そもそも宇宙と言う限られた領域内で、且つ今という止まった状態の中で無限のパターンは存在しない。そういった時の無限とは可能性でしか語れない。未来は未知であるが故に、時間は無限に経過し続ける。よって、可能性は無限だということになる。そういった意味で、現在の脳の構造で宇宙系の全情報を脳に圧縮するのは困難かもしれないが、脳を物理的に大きくすれば可能になるかもしれない。もしかしたら情報記録装置の飛躍的発展により、宇宙全体の情報を脳程度の空間に圧縮できるようになるかもしれない。可能性としては今こうして想像できているのだから0ではないのだろう。

 

宇宙の物理法則と情報

情報の圧縮と解凍

宇宙が持つ情報の中には我々の知り得ない未知のものがまだまだ内在しているのだろう。それを知ってか知らずかは解らないが情報は日々増え続けている。ただ、情報の素晴らしいところは、記録者即ち観測者の想像力が優れていればいるほど、情報量は少なくて済むということだ。無知であれば、宇宙から届く光のメッセージから情報を一つとして読み取ることはできまい。知っていれば、その光を包括的に解析することにより星の特徴といった様々な情報が得られるのに。よって、宇宙の歴史ともいえる宇宙情報の記録者として、想像力に優れたものであることは必要条件である。そこには宇宙を支配する法則を全て理解しているということと同義的な意味が込められている。要は必要最小限の情報から全てが想像できる、そしてその想像が現実と寸分違わぬことが重要である。そうであれば未来は予知できずとも宇宙全体の情報を最小の情報に圧縮し保管することができる。そうすれば、空間も節約できるというものだ。圧縮した情報を解凍したいのであれば、この宇宙に与えられた万物を支配する物理法則を暗号キーとして使えば正確に解凍できるという訳だ。

 

情報から考える物理法則とは

我々は知らない。既に宇宙全体の情報を記録する装置があることを。その装置がもつ情報が少ないが故、それが記録装置であることすら解らないでいる。それは当たり前だ。今だに物理法則を完全に紐解けていないのだから。暗号キーを手に入れるまで、その装置を作ることも使うこともできない。物理法則とは那由多に存在する情報の圧縮、または圧縮された情報の解凍を実現できる一種の道具である。

 

未来予知で失われる時間と未来

未来予知は不可能

我々は知らなければならない。時間的概念の中に内包する可能性を認める限り、全知は存在しえないことを。未来は無限に存在し、現在とは、これまで通過してきた過去にとっての未来にある可能性の一つに過ぎない。いくら全宇宙の全てを把握したとしても、未来を厳密に読むことは決してできない。未来とは、人が創り出した時間的概念という虚構から生まれた可能性の世界の話なのだから。

 

未来予知は情報過密化を生ず

即ち、「未来は可能性や未知と同義である」ということを知らなければならない。そして我々が到達できる極限は、最小の情報から最大の情報を読み解くことぐらいだ。従って、時間の生み出す矛盾に惑わされてはいけない。未来予知ができれば可能性は無くなり、未知もなくなる。未来と過去は、今という一点に圧縮される。それは宇宙のありとあらゆる事象が今に重なっている状態だ。情報密度が臨界状態となり、やがて崩壊する。それは1÷0の無限に続く計算を一瞬でさせるようなものだ。時間的概念が無くなる状態、即ちブラックホールと同質の状態である。情報のブラックホールは情報過多により生じる成れの果ての現象だ。

 

時間的概念の終焉とき

未来を予知しようと情報を集めた結果、情報が過密になり、ブラックホールを形成し、そして時間が失われ、それと同時に未来という概念も失われる。これが情報過多による時間的概念が終焉するシナリオ。情報がブラックホールと化した時、物理法則が破綻し、情報を読み取る暗号キーが失われる。そうして凝縮した情報は読み解くことのできない情報、即ち情報としての価値を失うのであった。

これは宇宙の理だ。

*1:無限とは、無限の組み合わせという意味である。

*2:ここで多様化の定義について触れるが、多様化とは宇宙誕生から今までの時間幅で生まれたパターンも考慮している。

*3:このことは、物理的法則が少ないが故に日々自由に変化(進化)できるこの自然界を見れば一目瞭然であろう。

人生のジレンマからの解放

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回答困難な問い掛け

この世で一般的で、それでいて回答困難な問い。

  • 世界の存在に意義はあるのか。
  • 自分がこの世に生を受けた意味はあるのか。

「意味(または意義)があるのか」という問いかけは先天的な意味付けである。
この種の問い掛けは「客観的な意味があるのか」という問いに置き換わる。この客観的意味の問い掛けに答えるのは非常に困難である。もしかすると回答不可能なのかもしれない。現時点では明確な解を導くための情報は枯渇している故、人知的な意味が実際に有るのか無いのかは不明である。

 

意味の探索より意味の付与

従って、「意味があるのか」と言う”意味の探索”をすることは、賢い選択とは言い難い。

そこで、「意味があるのか」ではなく、「どんな意味を付与するか」を重視すべきと考える。意味の付与であれば、後天的(主観的)な意味付けとなるため、終わりの見えない有無の問い掛けというジレンマから解放される。
そして「どんな意味を付与するか」という解決可能な課題へと置き換わる。

 

有無の問い掛けというジレンマからの解放

「世界の存在意義」「我々の生きる意味」
この有無の問い掛けのジレンマは、客観的な外部から見つけ出す<意味の探索>ではなく、我々個人の主観的な内部から付与する<意味の付与>を手段として選択することで解放される。

知識の進化論

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知識は生き物

知識は生き物である。
強ければ生き、弱ければ死ぬ。
時間が経てば進化し、また退化もする。
協力もすれば、孤独にもなる。
変化することもあるし、保持することもある。

 

アナロジー

上記の点を考えれば、知識という虚構の存在は生き物であることは明白である。
知識は生き物に内在するのだから、知識が生き物だというのは当たり前ではと言う人がいるのかもしれないが、知識は曖昧な存在であるが故にそう簡単ではない。知識は存在するのかと言う問いは、時間は存在するのかという命題と同じように証明するには困難を極める。なぜならば、それらは虚構の存在であるからだ。
確かにそれらの虚構が存在することは経験上疑いようがないが形而上の存在のため、それは漠然としたイメージで存在しており、顕在化させるには骨が折れる。
そこで、抽象的なイメージをアナロジーにより具体化することが、虚構の存在を顕在化する上で大きな意味を持つ。

 

知識という生命体について考える

そのアナロジーが「知識は生き物だ」ということである。
これにより、形のない知識が細胞や菌のようなイメージに置き換わり、それにより知識が死んだり、増えたり、コロニーを創って進化したりというイメージが可能になるのだ。

そこで、知識を生き物と捉えた場合、ダーウィンの進化論を当て嵌めてみるのも面白い。

 

知識の進化論

ダーウィンの進化論の骨幹となるのは自然淘汰である。自然淘汰とは不安定が滅び、安定が生き残るという自然の法則のようなものである。
自然淘汰で生き残る初期条件は、より長く存続すること、自己複製速度が速いこと、自己複製が正確であることである。
それぞれを知識に当てはめれば、知識単体(ある一つの知識)を長い時間記憶していること、記憶した知識単体を想起(復習)する頻度が多い、記憶した知識単体を正確に想起できることが、知識単体が自然淘汰の中で生き残る条件である。その条件を満たすためには知識単体の質が重要となる。質を上げるには、知識があらゆる関連情報で補強されていなければならない。これにより、正確な理解が可能となり、理解すれば想起は容易になり想起の頻度も上がり、想起の頻度が多ければ、記憶した知識の正確性は維持される。

他の生物との競争の中で生き残るには、他への攻撃によりライバルを減らし、他からの攻撃を防御し、また他を取り込み利用できるかが重要である。知識に置き換えれば、攻撃力の強さは印象の強さであり、防御力は知識が整理されているほど印象の強い攻撃に対しての強度が増す。そして他の利用が、知識同士の協力となる。

知識は自然淘汰の中で存続を賭け、日々を戦い進化している。
その様に考えると、新たな知識のインプットは、もとある知識と相性が悪ければどちらかが滅び、相性が良ければ協力し進化しより強靭な生命体となる。これが知識の進化論である。

 

知識のシンギュラリティ

知識の進化論に従うと、今後進化の過程で知識のシンギュラリティに到達すれば、新たな知識進化のフェーズへ移ると考えられる。
そうなるためにも、知識を扱う技術(=考え方)を高次化させる*1ことが今後の課題と言えよう。

*1:知識が人類と同じように進化すればやがて道具を発明し、その技術を発展させる。従って、その技術発展こそがシンギュラリティに到達するための鍵となるに違いない。

孤独な協力で成功する

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協力こそが人類生存の証

協力すること。
今更ではあるが重要である。

我々人類が地球の頂点に君臨しているのは紛れもなく協力が優れた集団だったからだ。
協力こそが成功の原理ではある。ああ、その通りだと思う。その通りなのだが、ここでいうところの成功とは集団単位に限られたものでしかないのではないかと、思考が不満を呈す。個人レベルでの努力の限界を突きつけられている気がするからだ。

そこで、”協力”と言う能力を集団単位ではなく、個人単位で活かせる方法は無いのだろうかと考えた。

 

個人単位で成立する協力の形

協力は「力を合わせること」である。
そこで、他人を必要とせずに個人だけで力を合わせる方法を考えることにした。

 

<1つ目の協力の形:インプット>

現在は産業革命のお陰で様々なものが誰にでも利用できる環境にある。その前提で考えると、周りの環境はこれまでの人類の協力の積み重ねで得られた”力”であると考えることができる。従って、その”力”を個人が活用することが「力を合わせる」になると言える。
例えば、本を読むという行為は、店に売られた本を自由に買うことができる。これは前述の環境という名の力を活用することに当たり、一種の協力と言える。
よって、周囲の環境を個人が上手く生かすことは、”協力”に値する。

 

<2つ目の協力の形:エディター>

周囲の環境と個人が協力することで、知識が増える。知識は断片的であればそれは情報に過ぎず知識の価値としては大して高くない。
真価が問われるのは各々の知識に繋がりがあるか、である。個々の知識は力である。その個々の力を合わせることこそ、知識の協力と言えるのではないか。知識は組み合わせることで別の新たな価値が生まれる。知識の組み合わせとは、知識間の相互作用により孤立した知識間に繋がりを持たせるということである。必然、組み合わせる知識が多いほど生まれる知識の価値は指数関数的に膨らむ*1。この知識の編集が協力でないはずがない。

 

<3つ目の協力の形:アウトプット>

知識を編集すれば、新たな知識が創出される。その知識をメタ知識と言おう。個々の知識はメタ知識へ昇華する糧となり、故に当然その糧となった個々の知識には価値がある。ではメタ知識はその時点で、価値が十分と言えるだろうか。価値は希少性と有用性の積で決まる。知識がメタ化すればその分、希少価値は上がるが、有用性が無ければ価値は無である。なので、希少性のあるメタ知識は、利用前は有用性が無いに等しいため、その時点で価値はない。利用できて初めて価値が生まれるのである。従って、メタ知識を利用する機会を与えなければなるまい。そこで、1つ目の協力の形と同様、外部の環境を利用する。環境はメタ知識を利用できれば何でもよい。ブログが一つの手段であることは言うまでもない。ブログを活用してメタ知識を掲載することで、知識を利用したという事実が生まれる。それこそがメタ知識に価値を与えたということである。この手段はブログと言う力の活用であり、メタ知識とブログという2つの力を合わせることであり、即ちこれは協力という形に他ならない。

以上が3つが他人を必要とせず個人単位で成立する協力という形である。*2

 

協力×協力で強力な成功が得られる

外部環境との協力により知識を得て、得た知識同士の協力でメタ知識に昇華させ、そして外部環境の協力のもとメタ知識を活用する。
そのメタ知識と新たな知識の協力によりメタメタ知識を生成しアウトプットする。・・・
この繰り返しにより、創発が生じる。そこで生まれる秩序が『成功』である。

*1:ここでは有用性の有無は考えない

*2:個人単位の協力とはいうものの、個人の見えないところで実際個人と他人が影響し合っていることを考えると広い意味で一般的な協力関係にあるのかもしれない

成功する原理

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人の偏向メガネ

我々はよく外見だけで相手を評価する。
自分より劣っているか、優れているか、同等か、と。

自分が見向きもしなかった人間が成功したとする。
自分より劣っていると思っていた人間の成功に泡を食う。

「彼奴は馬鹿なのになぜ成功したのか。」
「俺は彼奴より賢いのになぜ成功できないのか。」

このような嫉妬心やら劣等感やらが脳内を止めどなく錯綜することだろう。

そんな自分至上主義の傾向が色濃い思考回路の人間には、自分より劣っている人間が成功したという結果がなぜ実現しえたのか理解できまい。決して真の解には辿り着けないだろう。

 

自分至上主義の2種族

このような自分至上主義の人間は下記の2種族に大別できる。
無知に無知で視野が狭小な愚かな種族と知識は豊富だが成功の原理が読めない賢い種族。

 

愚かな種族

愚かな種族は、己の無知に無知が故に自分が劣っていることに気づかない哀れな人間の総称だ。
このような種族は視野が狭いくせに、人を見下し優越感で飯を食っている。
賢い人なら分かると思うが、全知を母数にすれば有知の割合はほぼ0である。言い方を変えると人の無知は全知と近似的に等しいということだ。これはごくごく当たり前のことを言っている。だが、愚かな種族はこの原理に気づけていない。愚かな種族は観測者自身を観測対象に入れずに観測対象者が無知か否かだけでその人の優劣を判断する。観測者は母数を無視して対象を観測し続けるため、無知がかなりの割合で観測されたという必然の結果に満足し、100%に近い確率で劣っていると評価を下す。この評価結果は、観測対象の知らないことを観測者自身が知っているか否かに左右されない。なぜなら、知っていようが知っていまいが無知が観測される確率はいずれにせよ高いに決まっているのだから。
また、この種族の劣等種になると、自分の無知には関心が無い一方で他者の無知には強い関心を示す。なお、自分が知っていることを相手が知っているか否かは、その人の興味が同じか否かで決まる。逆もまた然り。従って、この劣等種の特徴は自分には興味があり、且つ相手が興味のないところに対してのみを評価対象とし、相手を過度に劣っていると判断するのである。

 

賢い種族

一方の、賢い種族は努力し知識を溜めているが知識のみの蓄積にすぎず、成功する原理を見逃している。なので知識の豊富さが、かえってノイズとなって、その原理を覆い隠してしまっているのだ。そして、なぜ成功できないのかを理解できずに苦しむことになるのだろう。

 

成功の原理、それは協力

我々種族の成功には例に漏れず、ある原理が働いている。

それは”協力”である。

当り前だが、当たり前すぎで見逃される原理。常識だが常識過ぎて、忘れられていた原理。

我々人類が今に至るまで、自然淘汰から逃れてこられたのは協力があったからだ。
安定であることを望み、安定のために協力を選択した。
協力と言う原理を糧に今まで淘汰されずに生きてこられた。
我々の身体を構築する諸細胞とその中の細胞小器官全て、協力を極めに極めた集大成である。
我々が地球上で頂点に君臨していられるのは、他の生物よりも協力スキルが優れていたからだ。

我々が今存在し、地球の頂点に立ち、自由に生きていられるのは、人類最大の功績であり、この功績全てが協力の積み重ねで成り立っている。

協力こそが成功する原理である。

特異性を極めて自己を高める

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もう一つの世界線でのとある学生の回想

ここは100人の世界。俺はその中の1人。

この世界には義務教育制度があった。教育を受ける義務と言うやつだ。
面白いことに受ける教育科目は自由に選ぶ権利があった。

 

どの世界線でも科目選びは皆と一緒

ただ、この世界でも協調性やら同調性やらという集団心理という虚構の法則が働いていた。
ほとんどの奴らが同じ科目を選択する。ほとんどというよりかは俺以外の99人が同じ科目。
集団心理と言うやつは宗教やカルトといったように、みんな同じ考え。
みんな同じ仲良しってやつだ。
周りの奴らは似た者同士で区別がつかない。アイデンティティーってやつはどこに逝ってしまったのやら。

 

違うものを馬鹿にするのもお決まり

俺は当然、99人の奴らが受けている科目の講義には参加していない。
ああ、その通りさ。あいつら等からはよく馬鹿にされるよ。お前、そんな常識も知らないのかと。

正直、馬鹿にされるのはウザいけど、そんなアホどもは気にしてない。
理由は・・話せば少し、長くなるが。
ああ、了解。理由を話そう。

 

アホどもを気にしない理由

俺以外の99人の奴らは同じ科目を受講してるんで、あいつらは共通した知識を持っている。
99人が圧倒的多数だから、その共通した知識は一般常識に分類される。
ただ、共通化された知識のせいで、奴らの考え方はいつも同じ、個性差0。
呆れるほど独創性に欠け欠け。会話のときは同じ朗読を毎日聴かされている感覚。

それに対して俺は、あいつらが選択している科目にはユニークさに欠けてて面白く感じなかったんで
1ミリも勉強したことはない。前にも言ったように、99人の常識は俺にはないってこと。

ただ、俺の無知は、俺固有のものであり、100分の1の個性だ。

一方で俺1人だけ別の科目を選択し受講し学習していた。
あいつらは頭が固くて気づいていないが、99人には無い知識を俺は持っている。

この99人に無い知識を持つ俺の有知もまた、俺固有のものであり、100分の1の個性だ。

要するに、他人と違うことを”する”だけで、10000分の1の個性になれるってこと。
万が一の超ユニーク個性を集団とは異なる選択をするだけで手に入れられるって凄くないか。
そんなことに気づかずに集団心理の傘の中で安心して気が大きくなって優越感に浸っている奴らにかまってる時間が無駄だと悟ったのさ。

 

君子、無知の無知たる愚者に関わらずってこと。

ただそれだけの理由。

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