世界の存在理由は変化を記録するためであった
凪の世界。そして世界は動きだした。時化の世界へと。その世界はつながりを求めている。それは目まぐるしく変化する世界を記憶に残すために。宇宙は今もなお、その為だけに進化し続けている。時化の世界の宿命。それは記録。
- 人間社会の相互依存
- 一と全の相互依存
- 相互依存関係の活用
- ミクロとマクロの相互依存
- 人のつながり
- 実態あるものを虚構の彼方へ
- 記録連動行動
- 生物の正体
- 記録とは何か
- 記録中心進化説
- 宇宙の誕生
- 生物の誕生
- 人類の誕生
- ホモサピエンスの誕生
- 人が齎す変化の風が宇宙全体に届きうる
人間社会の相互依存
個が全体を作り、作られた全体が個を作る。これは我々の社会を上手く表現している。まず個が生まれその個が集団を作りその集団が社会を形成する。形成した社会が生まれてくる個の性質を作り上げ、原初とは異なる個を形成していく。この繰り返しで今の社会システムが機能している。
一と全の相互依存
一と全の相互依存は本当に面白い現象だ。ありとあらゆることに共通が見つかる。本。言葉が集まって物語を形成する。そしてその物語が連なる文章の中の言葉に大きな価値を与える。物語の一節で感動を与えるのは周囲の物語があってのことだ。そしてその一節がさらに後に続く物語の印象に強い影響を及ぼす。
相互依存関係の活用
個人は環境から影響を受けると行動が変化する。その個人の行動変化により逆に環境が変えられていく。その変わった環境から更に影響を受けた個人が再度行動を変化させる。仮に良い方向へ変化し続ける相互依存関係が構築できれるならば自ずと高みに近づくに違いない。
ミクロとマクロの相互依存
人のつながり。人のつながりは実態があるようでない、見えないつながりである。人のつながりと脳の神経細胞のつながり。一見関係がないように感じるが実際には相互依存の関係にある。ミクロで実体のある脳の神経細胞のつながりの一部をマクロに虚構として顕現させた現象が人のつながり。実体と虚構の橋渡しが人である。
人のつながり
相手を知る。この経験を脳内の神経細胞のつながりで記録する。そうすれば次に会うときは互いに知っていることを知っているので関係を再度つなげるのは円滑だ。これはまるで脳の神経細胞の反応が目に見える形でマクロ世界に現れたかのようだ。しかもそのマクロ世界で顕現した人のつながりは物理的なつながりではない。従って人のつながりは虚構である。ミクロな実体をマクロな虚構に写しかえる現象。
実態あるものを虚構の彼方へ
実体あるものを実体のない虚構へ写しかえるときに必要な機能は記録である。物理的に隔てられた複数の物体が個の持つ記録をもとに行動する場合、その複数の物体のとる行動は物理的な視点で観ると不可解なものに映る。理由は記録を頼りに運動する不規則運動は物理学の範疇にないためだ。そういう意味では物理学で説明できない分野は記録に依存する運動が記述できていなことが原因である可能性は十分に考えられる。
記録連動行動
人の不規則な行動が神秘的に映るのも無理はない。物理法則の枠外なのだから。宗教の神も、精神世界も、お金の価値も、人のつながりも、国も社会も、危機回避能力でさえも、全ての記録が創り出したものである。
生物の正体
生物。それは記録能力を持つ物体である。物体が記録をする。その記録が物体の運動を変える。その繰り返しにより記録を蓄積していった物体の運動は、(現代で言うところの後天的な記録の影響を受けない潜在的な原初の記録のみで記述された)物理法則の世界観から大きくかけ離れていく。生物が物理法則の世界からかけ離れていっている理由は物理的な情報の記録以上の記録を多く蓄積しているからだ。
記録とは何か
記録とは即ちつながりである。結合といってもよい。記録には重要な性質がある。それはもののつながりにより性質が変わることである。
記録中心進化説
記録を最大の目的として進化していく記録を中心として考える進化説。個の記録と個の集団である全の記録。この両者の性質が影響し合う相互依存関係が新たな性質を生み記録を膨らませる。ミクロだけの影響にとどまっていた性質が宇宙全体に影響を及ぼせるようになるまで進化する。この世界の進化は記録の蓄積量を増やすことを目的としている。
宇宙の誕生
今ある宇宙は全て記録の蓄積によるものである。宇宙誕生前を無という概念としたならば、その状態は独立する全てのものが互いに影響しあわない、対称性の高い世界である。対称性が自発的に崩れたとき、その変化の風は連鎖的に膨らみ、大きな影響の嵐となって有の世界に改変していく。独立した物体はつながりを持ち別の性質を持った物体へと変化する。これが記録。この記録により多様な性質の物体が宇宙空間に広がり、多様な物体は互いを影響し合いながら別の変化の風を起こしながら記録を蓄積していく。連鎖反応の嵐が収まった宇宙初期の時代は記録の蓄積の少ない世界で単純な変化の風を起こすだけにとどまる。そんな微風を追い風に長い時間をかけて膨大な記録を蓄積していく。超新星爆発で特殊な記録が刻まれた原子が生まれ、それによりつながりの組合せが多様化していった。
生物の誕生
ミクロの中で繰り広げられる影響の及ぼし合いも時が経つに従いその影響の範囲は雪だるま式に外のマクロの世界へと広がっていく。単体が分子を生み、分子が環境を作り、その環境がまた別の分子を作る。この相互依存が繰り返され、DNAという安定した記録を持つ物体が誕生した。このDNAは蓄積した記録を何世代にも渡り引き継ぐことができる、優れた記録物体である。その物体の誕生により何世代にも渡って記録機能が改良されていき、つながりの弱い記録を維持するには厳しすぎる物理環境の中で安定的に蓄積した記録を継承していった。そうしていくと継承される記録量は次第に大きくなり高度で複雑な運動をする物体が表れてきた。複製、防御、攻撃、回避、吸収。この運動をする生物は今でいう生物に他ならない。
人類の誕生
さらに、これらの運動をする物体は短い時間で膨大な記録を蓄積できるような機能を備えた。記憶である。記憶により記録破壊リスクが低くなるため、自然淘汰の摂理に従いその機能を最適化していった。初めは単純な環境から記録を守っていたが、高度な生物で構成された環境から身を守る必要が出てきた。そうして生物の集合が環境を変え、その環境が生物を変えるとったループで記録を維持する機能はさらに増えていった。そして人類が生まれた。
ホモサピエンスの誕生
人類は生存するために先天的な記録と後天的な記録を活用した行動に辿り着く。高度な生物が変えた環境の中では、後天的な記憶を重視していくことが生存率は高かったため人類はその戦略で繁栄していった。人類は後天的に身に付く記録を信仰する機能を自然淘汰の自然原理によって最適化していった。そうして人類は個体間で記録を共有することにより共通認識という物理的に隔てられた個の集まりの全体で記録するという、集団記録機能を身に付受けた。この機能に特化したホモサピエンスという虚構概念を信仰する人種が現れる。彼らは虚構を信じることにより他生物以上の協力行動ができるようになった。それによりホモサピエンスは生存競争の中で地球の頂点に立った。そうなるとホモサピエンスの人口は増え続け、個を取り巻く環境は他生物からホモサピエンスの集団へと変わった。その集団の中で生き残るためにさらに記録を蓄積する手段を構築していった。それが外部に記録するという方法だ。石板に記号をしるし記録する。それにより個人の能力以上の記録が膨大にでき、世代をこえて後天的な記録を継承することができるようになった。その個人と環境の相互依存関係のループの繰り返しにより外部への記録方法は今では体積をほとんど必要としないデジタルの世界に記録できるようになった。それによりさらに膨大な記録が可能となりその記録が人を変えていく。
人が齎す変化の風が宇宙全体に届きうる
地球内でミクロの世界の中の影響にとどまっていた微粒子の記録の性質が生物へと進化したことにより地球の全体の物理的環境に影響を及ぼすようになった。さらに進化した人類は地球の外側に影響を及ぼすように行動している。今では地球全体に散らばる人間のネットワークによって記録が行われている。即ち、記録は惑星一個単位で膨大な量蓄積されている。これが発展すれば銀河系単位で記録が蓄積するようになり、その影響力は宇宙全体にとどろくほど恐ろしく強力なものになるであろう。
最終的に宇宙全体のネットワークで記録できるようになれば宇宙の性質が変わり宇宙の外にその影響の波紋は広がっていくだろう。
成長する秘訣。その名はセレンディピティ。
現在の延長線上に思い描く未来に私はいるはずがない。常に新しいことを取り入れる。そうしていけばおのずと今思い描いている未来の姿からかけ離れていくのは明白だ。だから、過去思い描いた自分が今そこにいたのならば想像の範囲内で収まっていることを嘆かなければならない。
- 私は情報渇望症 にかられている。
- セレンディピティとは何か。
- 予想外という権利を得るためには。
- 予想。
- 予想通り。
- 正しいはどのように判断するのか。
- 予想通りは正義か。
- 予想外の結果を享受するには。
- まとめ。
私は情報渇望症 にかられている。
情報が欲しくてたまらなく、何かいい刺激になる情報がないかと無意識に探してしまうそういう症状だ。ただここでこの症に善悪のレッテルを付けるのは危険だ。一方で目的のない情報探査は避けた方がいいだろう。セレンディピティの効果が薄れてしまうからだ。
セレンディピティとは何か。
セレンディピティとは 予想外の発見である。物事の中心に対してその周囲が活性化されるそういう現象だ。予想外であるということは、その前に予想がなければならない。予想がなければセレンディピティによる発見は空しいものとなる。中心無くしてその周囲有ることもなく。
予想外という権利を得るためには。
過去に予想をしなければ未来永久、予想外が訪れることはない。予想をした者だけが得られる権利。それが予想外。予想外の権利が得られるとセレンディピティが活性化し、琴線に触れるような発見がもたらされる。それは感動。感動は脳の全神経細胞を遍く刺激し、脳を覚醒させる。その為にも予想しなければならない。
予想。
予想とは未来への目印である。印があれば自分は過去描いた道から外れているのかどうかが分かる。目印から外れていれば、過去した予想に何かが足りなかったのだと気づく。それが無意識であっても脳は覚えている。だから、予想外の時に "驚く" のだ。
脳は無意識に記憶している、何を目印(目的)にしたかを。ただ、目印がなければ驚くこともない。基準がなければ差は生まれないからだ。驚くというのは基準からの差が予想の閾値を超えたときに発生する現象である。
予想通り。
予想通りの展開は初めはうれしいが、それが重なると面白みの欠如に気づく。ここでいう予想通りとは予想通りになるように行動した上で得られる結果である。予想通りは目印の精度が高いともいえるが、一方で別の側面を持っている。それは未来に影響を与えられてないということだ。
予想通りになるよう行動した結果が予想通りで何が悪い。そうだろう。それは正しい。確かに可もなく不可もなく正しい。
正しいはどのように判断するのか。
正しいとはあいまいな表現である。何をもって正しいと判断するかは人それぞれ、時代それぞれである。そのため正しさの基準に絶対的なものは存在しない。ではどう正しいと判断するのか。それはその正しさがどれだけ自分の力になるかで判断すればいい。その正しさが自分の成長に有利に働き、糧になるのであればそれはまさに正しい行いである。
予想通りは正義か。
では上の定義を踏まえて再び予想通りは正しいのかについて考える。
答えはNOである。
予想通りの結果でもたらされる報酬は現状維持だけである。予想通りには予想外の発見がない。過去の自分の正しさは証明できるが得られるものは限られている。自分の成長を目的とした戦略で予想通りは敗北に相当する。従って予想通りは悪であると考える。
予想外の結果を享受するには。
予想外とはいっても意図的に予想を外すのでは新しい発見は得られない。なぜなら予想外になることを予想したのだから。予想外になるためには、予想通りになるという確固たる自信をもって目印に向かって出し惜しみなく進まなければならない。その時にあらゆる未知という不確定要素をインプットし続ける。要は日々勉強により未知の情報を収集し続けること。これは自分の成長を齎すとともに未来に対する不確定要素の影響が大きくなる。そうすると、過去に付けた目印からのずれが大きくなり、そして目印から大きく外れた、予想の外の結果になる。これが予想外の発見、セレンディピティである。
まとめ。
- 情報渇望化社会では目的意識を持たなければならない。
- 目的意識により予想外の権利を得る。
- 予想外の権利が得られれば目的に向かって猪突猛進で勉強する。
- そうすれば自分が変化することにより予想外の結果が得られる。
- その予想外の発見(セレンディピティ)は自分を大きく成長させる。
概念の誕生
概念。
太陽。太陽の概念。
青空。青空の概念。
雲。雲の概念
鳥。鳥の概念。
あなたたちはどうやってこの世に生を受けたのか。
あなたを生むのは概念という概念が生まれたから。
だから知らなければならない。
概念という子がこの世に生を受けるに至った経緯を。
概念(がいねん)
1 物事の概括的な意味内容。「概念をつかむ」「文学という概念から外れる」
2 《concept》形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。
概念とはそういうものらしい。そう辞書に書いていた。
辞書という本。本とは文字が書かれた紙が束になったもの。今は電子書とかあるけれど、本質的な機能は変わらない。
機能、機能。本の機能といえばものごとを文字として記録し、自分ないしは他者がそれの文字を見たときに、もとの対象となったものごとのイメージがおおよそ再現性が高い状態で復元させる、そんな感じではないか。
そうすると文字という存在が気になる。文字とは記号。何かを表す記号。何かとはなんだ。いや、何でもいい。
事象(事象)
1 ある事情のもとで、表面に現れた事柄。現実の出来事。現象。「自然界の事象」
何でもいいという意味を内包していそうなものを見つけた。事象。うん、なんかしっくりくる。何でも、って人間の思考から切り離された外部の事柄って感じ。だから事象がいい。
事象を表す記号が文字。いい感じ。いい漢字。文字は自由だ。一回使えるようになれば言葉遊びもできる。あ、言葉。文字と言葉は何か関連性があるに違いない。
1 人が声に出して言ったり文字に書いて表したりする、意味のある表現。言うこと。「友人の―を信じる」
2 音声や文字によって人の感情・思想を伝える表現法。言語。「日本の―をローマ字で書く」
3 文の構成要素をなす部分。単語。また、語句。「―が豊富だ」「一々の―を吟味して話す」
なるほど、言葉は音声や文字による意味の表現。裏を返せば意味のある表現には文字以外にも音声表現があるのか。
音声は文字よりも速いコミュニケーションツールとして使われている。そう、会話。会話では音声での意思疎通を図っている。音声で意思疎通できるのも、音で事象を表現できているからに違いない。人類が原始から使われたツールは音声に違いない。下等動物が文字を使わないことが理由である。文字はその後の技術の進歩で登場。
なにはともあれ。よくぞここまで、この世のありとあらゆる事象を音や記号で表現できるようにしてくれた。ほんとうに素晴らしい。複雑でいろんな意味で発散した事象、またの名を混沌。そこに含まれているカオスな情報を音や記号という必要最小限の言葉に圧縮できたものかと感心を通り越して感神。
事象の圧縮化。.jpg .mp3みたいな拡張子が音声や文字にくっついていそう。音声や文字の圧縮解凍装置が脳みそ。それにより事象が再現される。
そうそう。脳みそが事象へ解凍できるという事は、あらかじめ事象を認識できなければいけないはずだ。事象を脳みそが認識できるから音声や文字だけで事象をイメージできる。だがそのためには脳みそにもう一つの機能が備わっていなければならない。それは、記憶。脳みそに事象が記憶されていなければ、音声や文字は解凍されない。解凍できない。うん、不便だ。
脳みその中で起こっている反応は、音声や文字が入力されたとき、記憶した事象の中から最適なものを選び、それを再生する。そんな反応。だから、脳みそが圧縮解凍装置として働くには、音声や文字と事象をひたすらにして結びつける訓練をしなければなるまいて。それは子どもの仕事。子どもの頭の中ではこれを必死にやっている。
ようやく役者がそろった。
① 事象の認識
② 事象の記憶
③ 事象の音声化
④ 音声の文字化
この四つのスキル。これらを駆使する。
事象を認識して記憶する。その記憶と音声を繋げる。すると音声から特定の事象の記憶がよみがえり、その音声の意味を理解する。それを他と共有することで意思疎通ができるようになる。ただし、脳みその記憶容量も限りがある。そこで脳みそとは切り離された外界を活用する。それは印。それは記号。そして記号と意味のある音声が結びついたとき記号は文字となった。文字は音声とつながり、音声は事象とつながる。そして文字は事象とつながった。事象が文字に取り込まれたことにより混沌の中で無秩序に散在していた単一の事象が次第に抽出されていった。そうすると事象群は整理されていき秩序だったものに分類されていく。抽象的な意味をもっていたものが秩序化とともにより厳密に、そして単一な意味ごとに整理されてゆく。この細分化された素事象とそれを表す文字、そしてその文字の組み合わせにより意味を形成する。認識困難な上位事象を複数の低位事象文字を用いて表現することで、認識可能レベルまでで分解する。これが意味付けであり、いわゆる概念である。
混沌とした事象を整理することであらわになった事象の意味。
それを我々は概念と呼ぶ。
現在、過去、未来の正体
- 覚醒
- 時間は仲間外れの次元
- 人間は虚構を実体があると信じることができる不思議な生き物
- 人間はみんな洗脳されている
- 人間は無知な生き物
- 常識の呪縛から逃れよ
- 時間について私たちの感覚を紐解く
- そもそも現在、過去、未来とはなにか
- 過去や未来には飛べるのか
覚醒
目を覚まし頭が覚醒し始めた。ここは・・・。そう、地球だ。
混沌とした世界。ここは確かに三次元空間である。
私たちは選択の余地なくこの三次元空間の中で生を受け生活を営んでいる。そして生まれたときには既に空間の概念は当たり前にあった。そして時間という概念も当たり前のようにそこにはあった。しかし、おかしな話だ。そこに疑問を抱かないなんて。
時間は仲間外れの次元
空間が物理的に存在するのは解る。私たちと切り離された外部世界に存在し、そこには確かにあるのだから。しかし、時間はどうだ。私たちに備わった五感をフル活動させても認識することができない。そんなものを私たちは何の疑いもなく信じている。この世に存在しないものを実体があるかのごとく信じている。おかしな話だ。
人間は虚構を実体があると信じることができる不思議な生き物
時間を平気で信じることができている私たち人間。虚構を信じているという点で言えば時間なんて氷山の一角だ。神、お金、国、法律、会社、道徳、友情など、、これらは紛れもなく外界に存在しない虚構である。にも関わらず、何の疑いもなく信じれている人間は変わった生き物というほかない。
人間はみんな洗脳されている
だから私たちは洗脳されている。世界中のみんなだ。その証拠に洗脳されていことにも気づいていないのだから。そして確固たる証拠は世界の経済が現に成り立っていることである。お金の価値、国の存在の確信、法律の順守、これは全て虚構を信じるから成しえることであり、その上に立つ経済は当然、虚構信仰の賜物であろう。
人間は無知な生き物
自分が洗脳されているとも知らずに、宇宙人はいないだとか、幽霊はいないだとか、神はいないだとか、確信をもって否定する人がいる。おかしな話だ。存在しないものを平気で信じているくせに、自分の想像を超える存在は許容できないときた。こういう人は基本的に思考は停止している。みんなが言ったからだとか、権威のある人が言ったからだとかで信じて、自分で考えようとしない。そもそも、この世の中に正解があるかも疑わしいのに、常識以外を否定するその姿勢に呆れるばかりだ。別に私は幽霊とか神とかを信じているわけでもない。しかし、そういう虚構を信じるのは人それぞれ自由だと思う。何ごとも否定から入ってはいけない。うん。実は私自身、他の誰かに否定されたわけではないけど、自分の中のもう一人の自分が否定してくるから、こうやって頑張って抑え込んでいるのです。
常識の呪縛から逃れよ
人間は虚構を信じることを拒絶する一方、みんなの信じている虚構は当たり前のように信じている。これが常識の呪縛である。おそろしい。そうだよ。常識がいけないのだ。だから私は常識を疑う勇気をもって、思考を巡らせる。
時間について私たちの感覚を紐解く
そこで時間について考える。時間は不思議な次元という話はした。空間に対して時間はこの世に実在しな虚構だから。時間により現在、過去、未来という概念を創り出している。いや、現在、過去、未来は感覚的なもので、時間が体系化した概念なのか。どちらにせよ、時間的な感覚は確かに存在するように感じる。それがないと説明できないものが存在するのだから。その主な例は物体の運動である。運動を表現するためには時間軸が必要である。時間とはいわば一つ一つの場面をつなぎ止め形成した物語がバラバラにならないように維持する縫い糸だと思う。その糸が切れれば連続した場面はバラバラになり無秩序で混沌とした空間になるだろう。
そもそも現在、過去、未来とはなにか
では時間という概念の上に成り立つ現在、過去、未来について考えようと思う。物語を語る上ではこの三つの要素が抜け落ちれば文字の羅列に成り下がる。そもそも外界には現在、過去、そして未来も存在しない。それが初めて現在、過去、未来が概念として現れるのは記録することが前提となる。記録なしにそれらの概念は生じない。私たちが現在、過去、未来を考えるとき、必ず脳の記録をもとにしている。現在とはちょうど今記録している情報、過去とは既に記録された情報、そして未来とは未だ記録されていない未知の情報である。三つの概念を下に整理しよう。
現在:記録中の情報
過去:既に記録した既知の情報
未来:未だに記録していない未知の情報
これだけですべてが説明できる。何とも単純なものだ。タイムマシーンの登場により、時間軸を飛び越えて旅をするという映画に想像力が感化させられて、時間という概念がとても不可思議なものに感じていたのに考えてみれば物凄くあっさりしていた。胃もたれせずに済んだと思えば、よしとしよう。
こうすることで過去と未来の関係性があらわになってきた。
<未来:混沌/未知> ⇒ <現在:秩序化/記録> ⇒ <過去:秩序/既知>
未来は宇宙に広がった無秩序な情報の集団である。それらの中から情報を可能な範囲で無作為に抽出して記録していったものが過去と呼ばれるものだ。未来の複数に広がった世界線が過去になると一つの世界線に収束するように見えるのもひとえに記録という事象がそうさせているにすぎないのだ。
量子力学の観点から
量子の世界では観測すれば一つの状態に収束し、観測しなければ状態は波として広がりを持つという話は有名だ。このことも上の考えで説明はつく。観測とは記録であり、情報を無秩序の中から一つ抽出しているだけなのだから状態の収束はいわば記録によるものである。
ここまでのまとめ
記録とは状態の秩序化ともいえる。未来の混沌とした情報は記録すれば秩序化され過去となる。記録しなければ過去はない。記録は過去を創ること。記録できるものが過去になる資格がある情報だ。未来は未知と同義であり、未だに記録されていない情報群を指す。
過去や未来には飛べるのか
過去に飛べるかについて考える
まずは過去に飛べるかについて考えよう。過去とは既に記録された情報群。記録された情報を再生する(過去の動画を見る)のであれば今の技術でも実現できるがこれは過去の記録の復習であって過去に飛んだとは言えない。では、過去に飛ぶ上で重要な三要素を下に整理しよう。
<過去に飛ぶ上で重要な三要素>
- 飛んだ過去が記録を再現していること
- 指定した過去以降が未知であること
- 過去に飛んだ本人が過去であると信じれること
過去の動画を見ることは三要素の1、2、3を満たしていない。動画には視覚と聴覚の情報は含まれているがそれ以外の情報は記録されおらず要素1を満たしていない。また、動画は記録を寸分違わず正確に再生するものなので選択の自由がなく要素2は含まれていない。そして、要素1,2を満たしていないので当然要素3を満たすことも困難である。
<要素1>は人の持つ五感情報を記録し再生する超ビックデータの保存技術と五感を正確に再現できるインターフェースがあれば実現できそうである。
<要素2>は過去に飛んだとしても自分の行動や意思が反映されなければ意味がないので、要素1を実現する技術に加え、既知の記録以降に多数の選択がとれるバーチャルリアリティー技術が必要となる。
<要素3>は本人を洗脳する技術が必要で、要素1、2の技術があれば達成は簡単そうであるが、しかしそこが現実の過去世界であるということを信じさせなければならないことを考えると結構難しい。現実と錯覚させることは可能である。しかし、それがゲームの世界の延長線上の認識では信用させるのは難しい。少なくとも要素1,2の技術に加え過去に飛んだのだと信用させる情報を刷り込む必要はありそうだ。それは、タイムマシーンに乗って移動してきたという偽情報の刷り込みと、バーチャル世界に飛んだ前後の違和感ない連続性が重要だ。さらには偽過去世界の住民が自分の過去の情報を参照しても齟齬がない設定にされていることが重要である。従って要素3に必要なのは全世界の人々の過去の情報の蓄積から、人々が取り得る行動を自律的に行わせて、その人が人であることに違和感のない精度で再現でき、一部の不都合な記憶を改変する技術である。
<三要素に必要な技術>
要素1. 飛んだ過去が記録を再現していること
・五感情報を記録できる超ビックデータの保存技術
・五感を正確に再現できるインターフェース技術
要素2. 指定した過去以降が未知であること
・要素1の技術
・多数の選択がとれるバーチャルリアリティー技術
要素3. 過去に飛んだ本人が過去であると信じれること
・要素1、2の技術
・全世界の人たちの過去の記憶情報を記録する技術
・記憶情報から自律的な行動がとれるAI技術
・AIによる人のとる行動や言動のリアルな再現技術
・人の記憶を改変する技術
以上の技術がそろえば過去に飛ぶことは可能となる。
未来に飛べるかについて考える
未来に飛ぶことが可能であるかについて考える。その為に必要な要素は下記三つだ。
<未来に飛ぶ上で重要な三要素>
- 現在と飛んだ未来に感覚的なギャップがあること
- 現在から飛んだ未来までの間に連続性のある未知の物語があること
- 未来に飛んだ本人が未来であると信じれること
これら三要素を簡単に満たす方法は思いつく。任意の過去から現在までの記憶を消去すれば、過去に行く時のような大層な技術がなくても記憶を消去する技術さえあれば簡単に達成できる。記録により秩序化された情報を無秩序にすればいいだけなのだから。そういう意味では死とは情報の無秩序化だから未来を生成しているとも言えそうである。過去は一つの記録を正確に再現しなければならなかったので大変だったが未来へのジャンプはそこまで頑張らなくてもよさそうである。ほかにも、後頭部を殴って失神させれば未来にジャンプできる。ただ、これは人一世代の時間スケールの話であって、1億年後とかそういった話になるとこの方法では実現不可能となる。生命保存技術により1億年以上の劣化に耐えることができれば、実現できそうである。また、ブラックホールに相当する超重力技術により、その超重力影響下で一定時間過ごしても実現はできる。これはかなり難しい技術に違いない。実のところ、上記で挙げた過去に飛ぶために必要な技術さえあれば未来に飛ぶことは可能である。頭が結構疲れてきたので、細かな説明は読者の想像に任せることにする。
以上より、過去や未来に飛ぶことは技術的に実現可能であると考える。想像できるのだから実現はできるというそういう理論だ。
あの雲の名を私はまだ知らない
- 大空を眺めて
- 人生の迷いと仏の啓示
- 空に浮く雲への恐怖心と悟り
- 空の真実と構造
- 空に浮く雲とは何か
- 雲の正体により導かれた世界観の創造への課題
- 他人の世界に生かされる私
- 私が世界の神となるには
- 天国とは
大空を眺めて
澄んだ空。ああ、なんてきれいな青空なのか。空の青さを引き立たせる、空に浮く白い綿の正体。それは雲。形や色は一度たりとも同じでない。存在するはずなのに掴むことができない。雲とはなんて不思議な存在なのだ。
そもそも雲とは何だろうか。辞書で調べると以下のように記されている。
くも【雲】
1 空気中の水分が凝結して、微細な水滴や氷晶の群れとなり、空中に浮かんでいるもの。高度や形状によって種類を分ける。→雲級
2
㋐確かでない形・行動・所在などのたとえ。→雲を掴む
㋑きわめて高い所や遠い場所、また、そうした地位・身分のたとえ。「雲 の上の人」
㋒一面にたなびいたり、広がってかすんだりしているもののたとえ。「花の雲 」
㋓すっきりしない気持ち・表情などのたとえ。
「身をさらぬ心の月に―はれていつかまことのかげも見るべき」〈 新後撰・釈教〉
㋔火葬の煙のたとえ。
「あはれ君いかなる野辺の煙にて空しき空の―となりけむ」〈新古今・哀傷〉
3 紋所の名。浮雲をかたどったもの。
そうか、雲とは水蒸気の集まり、つまり意味1のことである。しかし、他にも違った意味で使われている。人は面白いものだ。想像力が豊かな証だ。
さて、ここで話そうとしている雲は当然、意味1の雲ではない。私の言う雲とは意味2が近そうである。
人生の迷いと仏の啓示
そう、人生を生き、何か釈然としないこの気持ち。まさに私は雲をつかむかの如く空に迷い込んでいる。私の場合、「空」は“そら”と呼ぶのではなく“から”と呼んでいる。空虚な気持ちが空を漂う私を限りなく正確に表現している。その空の世界で私は雲を掴もうともがいている。
空は果てしなく広く、そこに漂う雲の数もあまた存在する。それなのに私自身の雲がどこにもない。そう気づいたとき、ふと「知らぬが仏像」が私の頭を過った。
知らぬが仏が啓示を与えたのではないかと思う。空を“から”と呼ぶ私の心、その理由がわかった気がした。
空(そら)に何もなければ空(から)となる。そこに雲が浮かぶから空は“から”ではなく“そら”となり得るのだと。ということは、私が空を“から”と呼ぶと言うことは私にとってそこに何もないからだ。しかし、見渡す空には確かに雲があまた浮かんでいる。ではなぜ、私は何もないと感じるのだろうか。
それはそこにある雲が私のものではないからだ。それは私の創り出した雲ではないからだ。私は空の中にある他人の作った雲を見て空(そら)であると安心しきっていた。いや、そう信仰していた。しかし、知らぬが仏の見えざる手で、その信仰により井の中でめくらになっていた私の思考が突如高見へといざなわれた。
空に浮く雲への恐怖心と悟り
空に浮く雲はどうも危険だ。依存性が強い。それがないと生きていけないのだと本能が私に訴えてくる。空(そら)が空(から)になってしまうのではという恐怖からではないか。しかし無意識のバイアスから自分を切り離して客観的にその恐怖を眺めると、意外に冷静になるものだ。
きょう‐ふ【恐怖】
〘名〙 恐れおじること。恐ろしく感じること。また、その感じ
。
恐怖とは感じること、つまりは空想。ではその空想とは何を指すのか。それは将来起こりうる未知を指している。即ち、現在の私が創り出した「未来に起こりうる危機をテーマとした物語」を実際に起こる現実のものと信じたせいで生じる精神の乱れが、恐怖の正体であると考えた。そうすると、結局は恐怖は未知に対する反応なのだから抽象的に見れば恐怖は好奇心と同じであることになる。そう悟ったのである。
だとすれば、私の信じるこの世界が空(から)であると知った時の恐怖心は好奇心にも変えることもできる。いや、もう既に空(から)の世界が見たくて心がうずうずしていたのだ。
空の真実と構造
某仏様の見えざる手の後押しもあり、私は目の前の空の真実と向き合い、正確な姿を顕現させることができた。その姿が空(から)である。他人の世界を生きる自分が真実の世界であり、その世界の名が空(から)である。
空(そら)は空(から)と呼ばれる空間と雲と呼ばれるものが合わさって顕現する。空と雲は互いにやや複雑な相補的な関係にある。
私は空(そら)を生きたいという欲があり、それは皆も同じだ。何もない世界が面白いはずがないのだから。だがしかし、私以外の人は、他人の創り出した雲があるのだから世界は空(そら)として成立していて、それで十分満たされるのではないか、という疑問が沸くに違いない。確かにその通りで私も知らぬが仏の啓示がなければ他人の世界を空(そら)と信じて未だに満ち足りた世界をのうのうと生きていただろう。なぜそんな借り物の世界で満ち足り得るのか。それは今生きる世界を自分が創り出した世界であると微塵の疑いもなく確信していたからだ。しかしこれは的外れな誤謬である。この誤謬が生ずる理由は、私の認識する世界はすべて私の頭で認識して、かつ私の頭の中で描き出されていることより、私の頭に広がるこの世界は全て私の創り出した世界だと信じ得るには十分だからである。
しかし、知らぬが仏の啓示によりその前提が覆された。空を探せど探せど何一つ私の創り出した雲がない。そうして私の世界の定義は崩壊した。創り出された世界で生きる私。それを真の世界と呼んでいいものか。呼んでいいはずがない。生かされる人生。そこに何の自由があるというのだ。自由のない世界。縛られた世界。私はそれを世界とは認めない。世界の定義が崩壊したのではなく、自らの意志で崩壊させたのだ。そうすることで他人の世界から解放はされたが、私の世界に内包していた何もかもが無くなった。
この状態を何と呼ぶのがよいか。そう、空“から”という表現が最適だろう。私にとって他人の創り出した雲も空間の一部に過ぎない。
空に浮く雲とは何か
ようやく冒頭の問いかけについて語ることができる。
それは掴むことができない。それは実体のない虚構。それが雲。空(から)と雲が形成する空(そら)が世界であるのなら雲とはいったい何を意味するのか。
そもそも世界とは認識できて初めて顕現する。認識とは脳の意識下の域内にありその領域が世界である。意識が強くはたらけば自身の世界に与える影響もそれだけ強くなるということだ。では、意識とは何なのか。それはこの世の理を人の頭で脳が理解できるよう物語ることである。意識するとは物語るということであり、その物語を我々は世界だと認識している。
物語はフィクションであり、この世に実体はない。だが、我々はその物語を強く信じることで、実際にあるかのように感じている。世界の存在が物語であることは簡単に理解できる。国の存在、貨幣の価値の存在、社会の存在、これらはすべて、それらに付与された物語を人々が信じるからこそ存在が成り立つ。我々人類は物語というありもしない空想を信じることで高度な文明まで築き上げ、自然の摂理の影響下から脱し人類の摂理の次元を創り上げ自然淘汰の中の人類の地位を押し上げた。それらはすべて虚構である物語を信じる人類屈指の能力の賜物である。人類にとって物語を信じることは生存する上で掛け替えのないことであり、虚構の物語を信じることができなくなれば自然の摂理の影響下に引き戻される。
物語を信じることによって我々人類は数多の個体と結びつくことができる。即ち、物語の信仰によって協力することができるということだ。同じ物語を夢見ているのだと互いが疑いなく信じることができるから協力関係が成り立つ。物語の信仰によって構築された社会を生きる我々は物語を信じることで生かされている。そしてその前提によって物語が現実であると錯覚させ、それが世界となるのだ。物語が世界を形成する。
物語が失われた世界はどうなるのか。空(から)となるのである。いくら川があろうが山があろうがそれは空間の一部に過ぎない。このことは空(そら)と相似する。そう、ここまで言えば、雲とは何かという答えは分かったのではないだろうか。
雲とは即ち、物語である。
雲の正体により導かれた世界観の創造への課題
私はその物語を自分で創ることができていない。これでようやく私の課題が明確になった。私の人生の主題である世界観の創造の課題。
物語は他人が創ったものであれば、結局、その他自然物と同じ空間の一部と定義され世界が空っぽであるという結論が導かれる。
他人の世界に生かされる私
他人の物語の中で生きるということは世界の法則を他人の都合の良いように構築されるということだ。一生懸命働いても一向にお金が増えず時間と精神だけが浪費されているということは、他人の創った法則の中で生きているが故に私の浪費で他人の利益が齎されるように世の中ができてあがっているということである。
ここでの教訓は自分が満たされる結果が得られていなければ他者の物語の中で生かされているのだと疑わなければならない、ということだ。そして他者の物語の最たる例が“常識”である。そういった物語は作者が望むように改変できる。周囲に常識を植え付け、洗脳して、信徒から税を搾取する。即ち、物語の中においては作者が神となるのだ。
私が世界の神となるには
他人の物語に生きていては流されて一生を終える。これからやることは限られる。自分自身で創った物語の世界を生きることである。そのためにもまずは物語を創らなければならない。そう、雲を創るのだ。水滴を一つ一つを紡ぎ、そして雲を成す。水滴はより多く一か所に集め、互いが影響し合えるようにする。それにより、人はそれを雲と信じて周囲に語りだす。こうして私の雲が共通認識され、私の創った空(そら)の下で人々は世界を謳歌する。私の雲が創り出した簡易的な法則が創発を生み、複雑なシステムが形成される。複雑なシステムとは、私の雲が雨を降らせ自然の恵みとなってまた再び雲を形成するという輪廻転生システムのことだ。常に循環するそのシステム下では、環境の変化にあわせて雲は形・姿を柔軟に変え、常に雲は安定している。
そうして、雲の中の私の面影は複雑なシステムによりかき消され、人々は法則が私の意図によるものだというこを知る術を失くし、そういった存在を認めることすらできなくなる。そうすることで人々の行いが常に私の糧として蓄積されるのだ。ただし、独裁体制は常に内部崩壊という歴史を辿っていることを考えると、世界の法則が常に他人の不幸を糧にするものであってはならない。
世界の神となるまでのステップを整理したので以下に記す。
- 世界を疑い、自分の見る空を何と呼ぶか考える(インフレーション)
- 雲を観察し他人のものと区別する(ビックバン)
- 物語の素材となる情報を量産する(生命のスープの誕生)
- 自分の物語を創り、膨らませる(生産)
- 創った物語を他者に共有する(繁殖)
- 人々が物語を語り合い、物語が伝染する(複製)
- 物語の信仰によって自分の世界システムが高次元になるまで寝かせる(進化)
- 物語が現実と区別できなくなる(生存維持)
- 自分の物語の中で生き続ける
- 自分の物語の中で自由を学ぶ
- 何でもやってみて何でもできることを確かめる(シンギュラリティー)
- 自分の物語の中に生きている確証を得る
- 自分の見る空を“そら”と呼ぶ(悟り)
- 神となる(状態の昇華)
- 創造神として世界を構築し続ける(インフレーション)
※物語は生命同様、自然淘汰を生き抜くようにしなければならない
天国とは
自分の創る物語の中で生き抜くことができればどれだけ幸福感を抱けるのだろうか。その世界は他人の世界よりもっと自由でいられる。
見上げる空は自由そのものだ。
そこに浮く雲が空に奥行きを与える。
そこに浮く雲が空に動きを与える。
そこに浮く雲が空を色彩を鮮やかにする。
そこに浮く雲が雨を降らせ空を忘れさせない。
この空を私は“そら”と呼ぶ。
視界から空が外れてハッとした。
そこに浮く雲の名を私はまだ知らない。
谷底の馬鹿外界を知らず。されど地の底の味を知る。
谷底の馬鹿外界を知らず。されど地の底の味を知る。
~谷底の馬鹿~
馬鹿とは悪いイメージが強い。当然だろう。馬鹿と言われれば十中八九悪口なのだから。ここで言う馬鹿とは下記のような者を指す。要するに馬鹿は知能レベルが谷底と言うことだ。
[名・形動]《〈梵〉mohaの音写。無知の意。「馬鹿」は当て字》
1 知能が劣り愚かなこと。また、その人や、そのさま。人をののしっていうときにも用いる。あほう。「―なやつ」⇔利口。
2 社会的な常識にひどく欠けていること。また、その人。「役者―」「親―」
~馬鹿は外界を知らず~
当然、馬鹿は知能が低いのであるから、知能の高い利口のように視野を広くすることはできない。谷底の人が、山の向こう側が見れないのと同じだ。馬鹿は利口のように外界を知ることはできない。
~馬鹿は地の底の味を知る~
しかし、山の上の人は世界を広く見渡すことはできるが、地の底の味を知ることはできない。*1 ここで、重要なのは山を登った人間はそれ以降、決して地の底の味を知る術が無くなるということだ。地の底の味を知ることができるのは馬鹿だけの特権である。
馬鹿から利口への不可逆性
~馬鹿から利口は可能~
馬鹿から利口になることは山を登らなければいけないので、相当なエネルギー(努力)が必要となるが、逆に言えば努力さえすれば利口にはなれる。もう少し平たく言えば、馬鹿が利口になることは可能である、ということだ。
~利口から馬鹿は不可能~
だがしかし、利口になった途端、重大な問題が発生する。それは下山して元居た谷底へ戻ることができないのである。馬鹿から利口への反応は不可逆反応なのである。これは、盲点である。努力してやっとの思いで到達した山頂で感動に耽っていたら、実は元居た場所に戻れないと気づいたときの絶望感。馬鹿は努力さえすれば利口にはなれるが、利口は努力しても馬鹿にはなれないのだ。
馬鹿と利口の不可逆性に対する解釈
~馬鹿と利口の不思議な法則~
努力をすれば馬鹿から利口になれる。逆に努力をしても利口から馬鹿にはなれない。何とも不思議な法則だ。山と谷を使ったイメージに照らして考えると摩訶不思議な現象である。山を登るには十分なエネルギーが必要であるが、谷へ降るのはエネルギーが必要なく物理的に容易であるというのは常識的な感覚である。しかし利口から馬鹿への反応の場合は寧ろエントロピー増大の原理*2とかそういう感覚の方が近い。ここで、反応について少し考えてみる。
反応とは何か
この世の自然反応は大きく下記2つの理由で起こっている。一つはボールが谷へ転がり落ちる反応のように、エネルギー的に得をする理由から起こる反応(エネルギー減少の原理)。もう一つはコップの中の水が蒸発したら元のコップに戻らない反応のように、確率的に得をする理由から起こる反応(エントロピー増大の原理)。この両者の反応の兼ね合いで、どのような反応が起こるかが決まる。
~馬鹿利口反応の解釈~
では、上記を踏まえて馬鹿と利口の反応はどのように説明できるのだろうか。
馬鹿から利口への反応
馬鹿から利口への反応は、エネルギー減少の原理による反応である。もし仮にこの反応が自発的反応なのであれば、エントロピー増大の原理による反応が考えらるが、実際、自発的反応ではない。馬鹿は放置しても馬鹿のままであるからだ。自然に馬鹿が利口になったりはしない。馬鹿が利口になるにはエネルギーが必要である。したがって、エネルギー減少の原理の反応である。エネルギーは努力により蓄積され、そのエネルギーを使って山に登り利口の味を知る。
利口から馬鹿への反応
一方で馬鹿から利口への反応は、エントロピー増大の原理による反応の逆反応である。エントロピー増大の原理による反応は不可逆反応である。利口は高エネルギー状態なので馬鹿になるためにはエネルギー的に有利であるが、その反応は不可である。とするとそれ以上の理由としてにエントロピー的な不利の方が大きいことが利口から馬鹿になれない理由であると解る。もうひとつ馬鹿の努力を消滅させる反応があり、この反応はエネルギーコストが非常に大きいため、生きている間は到底起こりえない。
~馬鹿利口反応の新たなイメージ解釈~
以上を踏まえると、谷と山を使った馬鹿と利口のイメージ解釈には無理が生じる。特に山に登って以降は、上手いストーリが作れない。従って、馬鹿と利口の反応を新たなイメージ解釈へと落とし込む。こういう時はたいてい、マクロ的解釈よりもミクロ的解釈の方が上手くいく。脳の中を箱として考え、箱の大きさを世界観の大きさ、箱の中の情報分子は経験量や知識量と相関があり、箱の大きさと情報分子数で知能は決まると仮定してイメージ解釈する。
馬鹿は狭くて小さい1つの箱からなる世界(脳)で生きている。そこから膨大な努力(様々な経験と勉強)により外部に散らばった情報素粒子をかき集め非常に安定な情報分子(経験値や知識)を生成する。努力による情報分子の増加に従い箱内部の圧力が高くなり、小さな箱では収まりきれなくなり、やがて情報分子は壁を壊し外の箱へ飛び出す。この状態が利口である。ここで、小さな箱は大きな箱の中にあり、その大きな箱はさらに大きな箱の中にと、入れ子の箱になっている。なので、外に出た情報分子はまだ一回り大きい箱の中であり、外の大きな箱に飛び出せるか否かはさらなる努力による情報分子の生成量次第である。利口になると箱の体積が大きくなった分、壁を壊す情報圧にするために必要な情報分子数は初めの箱より多くなるため、さらなる努力が必要と言うことになる。外の大きな箱に情報分子が飛び出せば(利口の世界観)、元居た小さな箱(馬鹿の世界観)に戻るのは確率的に困難である。また、生成した情報分子を不安定な素粒子に分解消滅させることは非常にエネルギー的にコストが高いため困難である。この2つの理由より利口から馬鹿からにはなれないと解釈できる。
~まとめ~
努力とは脳内の情報分子を生成すること。情報量の増加はエネルギー増加を意味する。情報分子は努力により情報圧としてエネルギーを蓄え、やがて馬鹿の壁を破り、一回り大きい世界へ解放される。解放された情報分子は互いに相互作用して新たな世界観を構築する。これが利口という状態である。利口は馬鹿に戻ることは不可能である。理由として、一つは散らばった情報が小さな世界に戻るのは確率的に有り得ないから。もう一つは生成した情報分子を素粒子へ分解消滅させるのはエネルギー的にコストが高すぎるから。
総括
要するにここで言いたかったことは、馬鹿は利口になれるが利口は馬鹿にはなれない。なので、物心ついたときから利口だった人間及び、馬鹿だった記憶が無い人間は、馬鹿の視点に二度と立つことができない。だから、馬鹿は馬鹿を知らない利口に対して非常に大きなアドバンテージがある。馬鹿な状態を記憶することは、資産を運用するということであり、記憶は貯金や投資にあたり、このときの馬鹿は元本の一部となる。元本は成長すれば利益が発生するので、あとは馬鹿を記憶し続ければ複利効果により、利益が大きく膨らむ。しかもその馬鹿という商品は利口になれば二度と手に入れることはできない一生ものだ。もちろん馬鹿は他人にも売れない。それは人間として成熟した時に世界観の大きな差として現れる。二度と手に入らぬ世界観を思うと、馬鹿な時代も捨てたものではないと思うし、馬鹿を知らない(忘れた、知らないことを知らない)人間に対しては優越感のようなものも芽生える。馬鹿であることは決して悪いことではない。それを活かすには地の底の味を知り、忘れないことが重要である。
地の底の味を知る世界観
生きるとはエネルギーを減少させ、エントロピーを減少させる反応である。
死ぬとはエントロピーを増大させ、エネルギーを増大させる反応である。
生と死の切り替わりは、いったい何がトリガーとなっているのか不思議である。
不変性と可能性の戦い
- 安らぎを求めて
- 人工物とは何か
- 恐怖から逃れる旅の始まり
- 神の答えで恐怖を忘れられた
- 学問がトラウマを呼び起こす
- 周囲環境を固定化し恐怖を減らす
- 人工物が不変の象徴
- 人工物を崇める危うさ
- 人工物の呪縛から解かれなければ
- 呪縛は可能性を排除する
安らぎを求めて
我々は技術発展に伴い、周囲の環境を変えてきた。自然の摂理に抗うかのように、自らの身を守るため知恵を絞った。不確定性を恐れ定住による農耕と牧畜を好み、それでも逃れれない自然環境の変化に対しては、不変であろうと環境条件を一定にする技術を発展させた。我々は自然淘汰の呪縛から逃れるために、ひたすらに不変を求め続けた。その技術結晶が現在我々のよく知る“人工物”である。
人工物とは何か
人工物の境界線について考えると、まあ曖昧なものである。直感でこれは不自然だから人工物だ、程度の条件しかない。ただ、私は人工物とは「固定」の比率が重要な要素であると考える。固定度が高ければ人工物ということだ。このことは考えれば、当たり前のように感じる。我々は混沌を嫌い、血眼になって安定を求めた。自然は人間にとって複雑すぎた。だから、条件を定め出来得る限り物事の簡略化に努めてきた。我々は理解できない混沌に畏怖の念を覚え、理解できる固定された物で身を囲むことで、この恐怖から逃れてきた。この固定された物、即ち人工物は我々の恐怖から身を守る壁なのである。この壁が壊れれば、たちまち混沌の自然に身を投げ出され、想像通り全てを失うことになる。
恐怖から逃れる旅の始まり
そういった人工物は一種の宗教物だ。宗教の象徴と言い換えてもよい。一部の思考する人間が解を求めて理論を構築していったが自然に身を置く彼らは、自然の混沌に明瞭な解を得ることができなかった。それは未知であり恐怖である。我々は恐怖に対して二つの回避策をとった。一つ目は全知全能の神と言う名の人工物*1を創り出し、その神が言うことが全ての答えであるとした。二つ目は環境を簡略化し、混沌から逃れるために、建物や空調器などの人工物で身を囲うことだ。
神の答えで恐怖を忘れられた
一つ目の回避策では、神に聞けば答えが得られるので、未知に対する恐怖心は次第に忘れ去れていった。ただその安寧も永遠とは続かず科学誕生とともに再びトラウマのごとく恐怖は蘇った。神の教えが全てとするならば、それ以上の未知は無く、求める必要もなかった。しかし、恐怖を忘れた人間の中に神の答えの誤謬に気づき、興味本位で神には頼らない答えを求めていた。そうすると今まで不変で固定化され収束していた答えが、突如再び、霧散し、発散し混沌の道を歩むことになった。
学問がトラウマを呼び起こす
そこで、ロジカルに結び付けられた情報が形を成し、理論体系を象った学問と言う名の宗教が生まれた。ここでも、答えは一つしか許されないが、誤謬はなく人間にとっては納得いくものだった。不変で固定化された理論はまさしく恐怖から逃れる術である。だが、それが故に、自然の放つ混沌に対する未知への理解がより一層現実感を助長させ、即ち恐怖は具現化した。この具現化された恐怖から回避する策が、次に述べる二つ目の回避策である。
周囲環境を固定化し恐怖を減らす
二つ目の回避策は自然の曖昧さから逃れるために環境を簡略化し建物や空調器などで身の回りを固め、恐怖心を想起するのを抑制した。こうして、いつ来るか分からない豪雨や暴風、猛暑や極寒に対して抱く恐怖心から物理的に逃れることができた。法律や教育制度を作り、不確定な要素を最大限に排除するために社会システムを構築した。平均から外れたものは悪であるという信仰を国民全体に共有させ、その悪を抽出し排除してきた。以上のように、自然と言う混沌で数多ある条件の中で、人工と言う少数の条件を定めることで予測可能なレベルまで環境を低次化し、不安要素がある程度取り除いてきた。その状態が現在である。
人工物が不変の象徴
現在を生きる我々はそれを知らない。どのような過程で今が形成したのかを。だから不変が当たり前だという信仰を疑いもなく無意識に信じている。そう信じさせてくれるものは他でもない、我々の身の周りを埋め尽くす人工物であり、人工物の影響を受けた人間たちの共通認識である。人工物が不変の象徴であることは疑いようもない。朝になり目が覚めれば "それ" を見て心のどこかで安心して、夜になり床に就けば "それ" に囲まれ安眠する。毎日、人工物に恐怖を払拭してもらい、日々をごまかし生きている。ただ、我々にはそんな自覚は当然無い。だから、変化しない環境、固定された環境は当たり前であり、過去から未来永劫そうであるべきであり、それ以外考えられなくなっている。それ以外の考えは、自分の守護神である人工物様の否定に他ならないからだ。否定は恐怖や絶望を呼び覚ます。それを否定するのは我が身を蹴落とす悪であり、排除すべき存在であると、心が騒ぐ。
人工物を崇める危うさ
我々の行く未来では、AIの特性上、量子コンピューターの特性上、今以上に混沌であるのは言うまでもない。AIは情報を渇望し、その情報量は混沌であるほど豊富である。人工化の行く先では情報は必ず枯渇する。なぜなら、人工化は混沌とは逆向きの反応であるからだ。また、量子化が進めば状態は一つに定まらなくなる。いや、状態は一つである必要が無くなる。即ち曖昧さの到来だ。AI化は情報を求め、量子化は混沌化を促す。この両者の相乗効果により、加速的に混沌化は進む。我々は今のままでは確実に絶望を経験することになるだろう。
人工物の呪縛から解かれなければ
そうならないためにも、我々が今できることは、まずは自らの力で呪縛を解かなければならない。人工物の神は不変を、固定を望む。我々が生まれて社会人になるまでに植え付けられてきた教育が絶対的で間違いないと思わせる。聖書の教えに従い思考が固定化されている。そして、それ以外の教えに対しては不変を望む信仰であるが故、間違いだと一蹴して排他的思考となる。その姿勢が呪縛である。それら "常識" が間違いである可能性を自分の頭で考えることこそ、呪縛を解く術である。
呪縛は可能性を排除する
ところで、月や火星に知的生命体がいて、彼らの高度な技術が地球にも昔から存在していたことは知っているだろうか。そしてその高度な技術の結晶が混沌化技術が熟した姿であり、我々が混沌だからと出来得る限り隔離してきた自然であるとしたら、あなたはどう思うだろうか。
可能性とは未来であり、未来とは時間であり、時間とは思考であり、思考とは人生だ。常識と言う呪縛は人生を奪う。
*1:物は仏と書く方が意味としては近いが混乱を避けて物とした