Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

世界観の高次化

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常識という束縛からの解放

魂?霊?そんなもの存在するわけがない。確かに2、3年前までの私はそう確信していた。だが今は、昔のようには完全否定することができない。いや、寧ろ霊的なものの存在に対して積極的に信じるようになっている。
きっかけの始まりは、世界が普遍的でつまらないと思うようになってからだと思う。それ以来自分の世界観が狭小なことに頭を悩ませ、ある時、その原因が固定概念によるものだと気づいた。それをきっかけに非日常的かつ非常識的なオカルトやSFの分野に対しての安易な排他的思考は捨て、それらが真実である可能性を信じて「非常識な真実」について真面目に考えるようになった。
「非常識な真実」について思考の構築をしていくに従い、霊界の存在が否定できないことに気づいた。それは今までの常識的な世界観に大きな改変をもたらすものとなった。この人生の岐路を忘れないためにも、「非常識な真実」についての考察を下に記録することとする。

 

霊とは

霊とは物質的ではない、形而上の何かと考えれる。人は想像を絶する何かに遭遇すると極度に恐怖する。人はその時、でき得る限り頭で理解できるように、幽霊であったり妖怪であったりと容易にイメージ可能なもので説明しようとする。即ちこれに習えば、「霊とは、唯物論では説明不可能な現象に対して、説明の可能性を与える非物質的な何かのことである」と考える。

 

人間の盲目性

我々人類は自分自身に関しては盲目的で極端に過小評価するようである。厳密に言えば人類を含めた全生物に対して過小視する傾向にある。
一方で、努力の末に得た文明の利器であるテレビ、PC、スマホ、電車、飛行機、ロケット、衛星などの人工物に対しては、最先端技術が駆使された高度な機器であると高く評価する。第4次産業革命真っ只中のAI、ビックデータなど最近の技術進歩は目覚ましいものであり、今後訪れる未来に対して期待せずにはいられない。
近年では将棋や囲碁でAIに人が負けるという衝撃的なニュースを散見する。この無機質な人工物の加速的進歩という時代のうねりによって、本質的なものがかき消され、真実に対して盲目となり誤った常識的感覚をつくりだしている。それは、「生物より人工物の方が優れている」というなんとも自虐的な感覚だ。冷静になれば、これは過ちであると簡単に気が付くのだが。ただ、我々は直感的に生物より人工物を過大評価してしまっているのだ。我々はよくものを忘れるし失敗もするため、正確無比な人工機器の方が自身以上に高次元なものだと感じてしまう。これに加えて、人間を除いた生物の知能は我々よりも低次元にあるという事実が、人工機器>生物という意識を増長させている。ただ、生物の備えた数多のシステムを少しでも理解しようとするならば、すぐに生物に対して如何に自分が盲目的であったのかを知ることになるだろう。

 

人類最大の誤認

人間を含めた動物にはDNA、感覚器官、ミトコンドリア、筋肉、脳など超高次システムが生体に内包されていることはご存じだろうか。

植物に関しては、たった光と水と空気だけで物質的な成長可能としている。このような植物の「光・水・空気から超高次システムをもった光合成装置を当たり前に量産している(細胞分裂)」という事実は驚異的である。
人間の叡智を結集しても実現不可能なシステムを膨大に組み合わせた上で生命体は構成されている。この驚愕的事実に対して、我々はどうしてこんなに盲目的にいられるのだろうか。この本質的なことを本当の意味で理解しているのであれば、どんな生物であれ、それらに備わるシステムは明らかに人類の先端技術では遠く及ばないのだから、直感的に過小評価してしまう我々の感覚が如何に可笑しいかに気づくであろう。

 

神の御業

疑問に思わなければならない。人間の叡智結集技術でさえも実現不可能なシステムが如何にして生れ、現在そのシステムを備えた生命体が当たり前に存在しているという日々日常の違和感に。本当に人が考えているように自然的進化の過程で、超高度なシステムが構築され自発的に生命体を構築してきたのだろうか。
自然が、生命体の形成に必要な素材(空気、土、水)を揃え、環境を適度な条件(光、圧力、温度)に調整し化学反応を促進することで低次パーツを創る。さらにそのパーツと他のパーツを組み合わせて高次パーツを創る。そしてこの繰り返しにより現存する全ての生命体を創造したのだとしたら、自然は我々の想像にも及ばない超高次的な科学者(創造主)であるといえる。我々はこのような超高次的存在を神と定義する。自然神こそ我々の母であり、その名を今では「地球」と呼んでいる。
生命創造の御業は人類の叡智結集技術を軽く凌駕した超高次元技術の存在を前提としている。この事実より、地球(神)は宇宙構造の根本にある法則を完璧に理解していた(いる)としか考えられない。しかし、地球(神)は自慢をするわけでもなく沈黙を貫いており(私が低次であるため会話する能力がないだけの可能性大)感情が見えてこないので、このことを確かめようがない。だが、今に至るまでの地球の偉業を目の当たりにすれば、無神論者であっても畏敬の念を抱かづにはいられない(主に私)。

 

見えてくる謎

下記に顕在化した3つの謎を挙げる。

①宇宙の法則:

この世界(宇宙)は法則というものに縛られており、現在の状態は某宇宙法則に従い形成したわけだが、必然的かつ絶対的な宇宙法則は如何にして齎されたかは唯物論からは絶対に説明できない。なぜなら物質の存在は宇宙法則を前提にしているからだ。

②ミクロの世界:

現代は物質主義であり、唯物論の上で科学が進歩してきた。ただ、物質だけで森羅万象が説明できるほどこの世界は簡単でない。事実、量子論の登場により唯物論の絶対性は崩れている。電子が二つのスリットを同時に通過する現象は唯物論の世界観からすれば不可解(不愉快)極まりなく、物質の域を超えていると言わざるを得ない。

③生命体の高次機能:

ミクロな面では、生命体を構成する細胞の生産や、細胞一つ一つの高次システムのコントロールなどのミクロな機能から、思考、感情、意志を顕在化させるマクロな機能迄と、ありとあらゆる生命体の働きについて唯物論的化学反応だけで説明するには無理がある。DNAを例に挙げると、多種多様な高次器官や、それらを正確に制御できる機能を備えた指令塔などの、自発的生成を実現可能とするプログラム情報が4種の塩基の配列だけで記録できているという仕組みは・・・即ち謎である。

 

霊の発現

上記、3つの謎については唯物論の上では説明できない。その理由は、我々の世界観の次元が低いためである。この課題を克服するために経験を参考にしてみる。
例えば、立体は2次元空間(高さ、幅)では説明できないため、空間次元に奥行という次元を1つ取り入れることで、説明を可能にしている。また、物体の運動に関しても、空間次元だけでは説明に必要な次元が不足するため、時間という次元を取り入れることで時間変化に伴う物体の挙動、即ち運動が記述できる。このように説明困難な場合には新たな次元を取り入れればいいし、この解決手法は一般的である。
従って、<見えてくる謎>で挙げた3つの謎について説明を可能とするには、新たな次元を加えればよい。その次元を"霊"と名付けたなら、今まで非現実的でばかばかしかったオカルトチックな”霊”という存在に対して、論理的な価値が生まれ、安易に棄却することができなくなる。
②の謎を例にすれば、近代の科学では、二重スリットの現象(電子を一発ずつ二重スリットに向けて飛ばし、二重スリットを通り抜けてきた電子が壁のどこにぶつかるかを観察記録し、各電子がぶつかった局所的位置の記録結果を幾重にも重ねると縞模様が出現するという現象)について、電子銃から放たれた1つひとつの電子が2つの穴を同時に通り抜けた際に、それぞれの穴を通るという2つの事象が互いに干渉し合った結果、スリットを通り抜けた先にある観測面に縞模様が表れると説明しており、これは唯物論の世界観においては理解不能な現象である。このことは対極にある霊的世界観を肯定しているものであり、即ち最新科学は既に霊次元を受け入れている。この世の森羅万象への理解は物質を記述する次元に霊次元を加えることで補完される。

 

霊界への干渉

霊界を信じる根拠は、霊界の存在意義に比例する。霊界という新たな次元(概念)を想定することで、説明困難だった事柄への理解を円滑にし、さらには思考をより高次的な階層へといざなう。この瞬間、私の世界次元が1つ増えたのだっだ。

 

天命

霊は物質では説明できないため、霊と物質は対極するものと考える。従って、「物質」の反対は「無」ではなく「霊」であり、この二者は互いに相補的関係にあると言える。
ここで俯瞰的視点に立つと、結局のところ、これらの事を突き詰めていけば、あらゆる事象の説明や理解を可能にしている根源は "言葉の存在" であるところに行き着く。言葉によって、世界の混沌が定められるのだから。言葉は物質的ではない、即ち霊次元の領域に存在する概念である。霊次元にある言葉により、我々の世界観が安定化し、物質または霊が顕現化した。
この顕在化により物質主義や霊主義という両極端な思想家が生まれ、相反する両者は主義と言う名の排他的であるが故に、互いの意見は衝突した。そして近代では霊主義者が破れ、物質主義が正義となった。現代を支配する唯物的世界観では物質の消滅を無と定義するため、生命の死は完全な消滅と同義になり、死後は完全な無と解釈するようになってしまったのだ。それによって現代で言うところの死を常識とした世界観では生きる目的や意味、そして価値までもが無く(蔑ろに)なってしまった。このように物質主義には非情な側面があり、現代が精神的な観点を蔑ろにするのも頷ける。
生の概念が生まれると同時に、死の概念が生まれる。生と死は相補的であり、互いに強い概念的相関をもつ。従って、生の概念を蔑ろにすることで、その反作用として死の概念も蔑ろにされる。死を消滅という概念にするのであれば、それと同時に生は発生と存在維持という陳腐な概念となってしまう。一方の価値を貶めれば、もう一方の価値も貶められる、これは自然の理である。生に価値を見出したいのであればそれは、死の価値を見出すことと同義であることを理解しなければならない。生に価値を付加すればするほど死の概念は高次化する。即ち、生きる幸福を得よう(=生きる価値を見出そう)とするのであれば、霊次元の存在を前提に世界観を構築することが必然となるのである。

我、ここに天命を授かる

”人生とは世界観を創造し高次化し続けることである。さすれば死後も生前に得た世界観が慣性の法則に従い継続するであろう。”

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