Amies Philosophy ー世界観ノ創造ー

世界は物語。物語は雲。世界観の創造は水を雲にすること。世界観は入道雲のように空高く。

存在のパラドクス

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今が認識できない不条理

我々は"今"という瞬間を連続的に生きる生き物である。
にも関わらず、"今"を認識することができない。

今、机の上に置いてあるコップは重力と垂直抗力のつりあいにより静止している。この光景を見た人は誰しも、"今" コップが机に置いてあると答えるし、そのことは疑いようのない事実であると考えるであろう。しかし、コップが見えるまでの過程について考えると、この事実は本当は誤りであり、常識という錯覚に覆われた非常識ではないかと懐疑的思想に陥る。ものが見える迄の過程には、光源から発せられた光がコップに当たり、特定の光を反射する瞬間を始点とすると、その時点から反射光が空間を経て目に届き網膜で受信し、その情報が電気信号として脳まで送られ、それを脳が認識するというこの終点までが存在する。即ち我々が見たと言っているその情報にはタイムラグが存在している。ただ、机上のコップを目の近くまで持ってきて光の経路を短くすることで、このタイムラグは限りなく0にできるが、0にはならない。従って、全事象とそれに対する我々の認識の間でのタイムラグは不可避である。

 

今とはいったい何なのか

以上より冒頭で述べた、"今"を認識することができないという結論に帰結したわけだが、このことは、「我々の"今"認識している全ては過去の事象である」と言い換えることもできる。

認識は過去でも、未来でもなく、今しかできない。今しかできないのにも関わらず、その認識は全てが過去のものである。"今"見える夜空の某星は数億年前の過去である一方で、"今"見えている机のコップは限りなく0に近いが0ではない過去である。このようにタイムラグは大小様々であるが、過去という意味では同じである。さらには"今"も瞬間瞬間の連続であり流動するが故、その"今"は連続的に過去に移りゆく。

我々の認識しうる"今"は過去の事象であり、その"今"の認識ですら過去へと止めどなく、儚くそして刹那に移りゆき、これは不可逆的である。(経験則:覆水盆に反らず、物理法則:エントロピーの増大の法則参照)

 

存在の否定が否定できない

"今"は実際に実在するのか。"今"を証明しようとしても"今"はすぐに過去になり、"今"を観測して今認識したものは全て過去である。結局今を証明することはできない。さらには過去は記憶であり、その記憶は書き換え可能であるため、記憶の真偽は証明しようがない。従って、過去の実在も証明できない。言うまでもないが未来の実在も証明できない。よって、我々の存在も証明できない。("今"は過去の一部であり、その過去自体の信憑性はなく、未来の存在も仮説の域を出ない。我々の存在も過去でしか語れない。このパラドクスはどうも、過去、今、未来というように時間軸を今という不確かなものを原点として区分していることが原因のように感じる)

過去、今、未来。そして我々の存在。それらは全て錯覚にすぎないのか。
この世界は存在すら証明できない異常世界である。

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